コラム「はいかい漫遊漫歩」 松谷富彦
(166)鬼平も好んだ一本饂飩の話
池波正太郎『鬼平犯科帳』シリーズ第7巻第4話「掻掘のおけい」の書き出しから入る。
〈 深川・蛤町にある名刹〔永寿山・海福寺〕門前の豊島屋という茶店で出す名物の〔一本饂飩〕は、盗賊改方の長官・長谷川平蔵が少年のころから土地ではしられたもので、「おれが、本所・深川で悪さをしていた若いころには、三日にあげず、あの一本うどんを食いに行ったものだ」などと平蔵、むかしをなつかしんで深川見廻りの若い同心たちへ語ったこともあった。
五寸四方の蒸籠ふうの入れ物へ、親指ほどの太さの一本うどんが白蛇のようにとぐろを巻いて盛られたのを、冬はあたため、夏は冷やし、これを箸でちぎりながら、…濃目の汁をつけて食べる。〉
続いて〈その〔一本うどん〕を…〉と鬼平話が展開していく。
池波が種本にしたのが、昭和5年(1930)に四六書院が出版した『蕎麦通』。著者は当時、東京北区滝野川の「日月庵藪忠」の店主でそば打ちの“名人やぶ忠 ”と言われた村瀬忠太郎。同書の31章「一本饂飩」から引く。
深川浄心寺の前に、ヤホキという饂飩屋のあったのは昔のことで、饂飩のほかには他の麺類は一切売らなかった。しかも饂飩も普通の饂飩ではなくて、一本饂飩というものだけを売っていたのである。…奇を好むことに躊躇をしない江戸ッ子は、路を遠しとせずに、一本饂飩の試食に出かけたのである。
〈 ヤホキの一本饂飩は、普通の饂飩の太いもので、そのおおきさは親指ぐらいのものが、丼のうちにただ一本、あたかも白蛇がとぐろを巻いているようにいれてある。これが極めて柔らかくて口当たりがよく、箸で食いやすい長さに切り、汁をつけて食うのであるが、…この饂飩の見事な事は、切口が鮮やかに四角の形を保っている上に、芯まで柔らかく火の通っていることである。…〉この章の最後に村瀬は〈京都とか名古屋とかに、これに類するものがあるという話を、耳にした事があるが。〉と締め括っている。
あるのだ。享保年間創業と言われる「一本饂飩」の店が、京都北野天満宮傍に16代続いて健在だった。店の名は「たわらや」、この店は一本饂飩を“つけ麺”のヤホキに対し、“かけ仕立て”で出す。
話を『鬼平犯科帳』に戻すが、池波は「一本うどん」が気に入ったのか、第11巻第1話でふたたび村瀬本を種本に「男色一本饂飩」を書いている。
船頭も饂飩うつなり五月雨泉 鏡花
冷しうどん遅参の訳を話しをり林 誠司
紅葉の真ッ只中の力うどん川崎展宏
天高しほがらほがらの伊勢うどん奥坂まや
鍋焼きときめて暖簾をくぐり入る西山泊雲
鍋焼や火事場に遠き坂の上正岡子規
酒よりも鍋焼を欲り老い兆す瀧 春一
真白なる湯気の釜揚げうどんかな草間時彦
(167)ネギマ鍋(汁)の栄枯盛衰
昨今「ネギマ」と訊けば、大方の人が「鶏肉と葱を交互に刺した串焼き」と答えるだろう。「ネギマ鍋は?」と問えば「えっ、串焼きを鍋にするの?」と聞き返す人が多いはずだ。ネギマは、そもそも漢字で書くと「葱鮪」、つまり「ねぎまぐろ」が訛って「ネギマ」になった栄枯盛衰の話に入る。
「ネギマ鍋(汁)」の鮪は、トロ、中トロが使われる。江戸時代の延享三年(一七四六)に書かれた手稿本「黒白精味集」の魚貝番付では上魚、中魚、下魚の三ランク中で鮪が鰯、鰊、鯖、河豚、泥鰌などとともに最下位「下魚」の位置づけだった。
鮪が江戸で「下魚」として扱われた理由。先ず挙げられるのが、輸送力、保存技術。当時は、陸前や陸中から船で運ばれたが日数がかかり、冷蔵なしで運ばれるため、赤身がどす黒くなって河岸に届く。当りが悪いと、頭痛、腹痛、嘔吐、下痢の食中毒を起こすとあって、江戸っ子は「日増しの鮪は毒なり」と下魚扱いをした次第。
ところが江戸時代後期になると、海流の変化で江戸近海でも大いに獲れ出し、新鮮な刺身が食べられるようになった。と言っても赤身中心で明治を経て昭和二十年代までは脂身のトロ、中トロは、せいぜい貧乏人の食い物の時代が続いた。大正・昭和の時代考証で活躍した加太こうじさんの「江戸のあじ東京の味」(立風書房刊)から引く。〈 昭和十年頃は、職人や小商人、職工などの家では薄味の醤油汁でねぎと煮てネギマ鍋にした。栄養価が高くて美味で安価で、酒の肴にも副食物にもなるから、東京の下町では人気の高い家庭料理だった。〉と。
だがトロ、中トロの値段が赤身を凌ぐ時代になり、「刺身にせずに煮て食べる?」と目玉を剥かれる今日、鮓屋の裏メニューにあったネギマ鍋も姿を消した。ところが「カマトロ」を使った「ネギマ鍋」を売りにする老舗が浅草に健在なので紹介しておく。「浅草一文(いちもん)本店」(台東区浅草3の12の6)
あたたかき葱鮪の湯気やぶしやうひげ日野草城
夜遊びの夜となりたる葱鮪かな岡井省二
葱鮪鍋下町に闇にはかなり伊藤伊那男
葱鮪鍋つつく合縁奇縁かな清水基吉
ねぎま汁風邪のまなこのうちかすみ下村槐太
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