はいかい漫遊漫歩   松谷富彦

(188)原爆に果つ身なりしを吊忍   大久保橙青

 掲題の句は、平成8年(1996)に92歳で没したホトトギス俳人、大久保橙青(本名武雄)が、自らの生死を分けた広島体験の詠句である。東京帝大を卒業し、逓信省に入省。同省の先輩、富安風生の紹介で東大俳句会に入り、高浜虚子に師事し、郷里熊本が橙の産地であることから俳号を橙青と名乗る。

 初代海上保安庁長官、衆院議員、労働大臣を務めた橙青を俳句評論の坂口昌弘は、著書『文人たちの俳句』で官界、政界で活躍の傍ら詠句にも勤しんだ俳人の一人としている。出自を辿ると、祖先の大久保八左衛門宗雅は、長水の俳号を持つ蕉門俳人だったという。

 広島体験の話に戻る。昭和20年(1945)8月5日、橙青は運輸通信省海運局中国海運局長として広島市に赴任し、翌6日、宇品の陸軍船舶司令部と打合せのため午前7時、局舎を離れる。その1時間15分後の午前8時15分に広島に米軍機エノラ・ゲイが原爆を投下。中国海運局が入る福屋八丁堀本店ビルは、爆心地から約700メートルに位置していたため局職員19名が爆死。

  新任局長の橙青は、文字通り間一髪で死を免れた。回想録『霧笛鳴りやまず』で橙青はその時の体験を詳しく綴っているが、掲題の句はその時の己を詠んだ句である。次の二句もある。

人影を壁に焼きつけ原爆忌

命いまあること不思議屠蘇を汲む

 〈虚子は「最も身近に体験した人の句には、真実があって人に迫るものがある。」と、慰め励ましたという話を橙青が伝えている。橙青も「悲惨な現実の中にも俳句の季題が生きているということは、全く驚きのほかない。」といい、虚子も橙青も俳句に原爆を詠むことを否定していない。「ホトトギス」は社会性のある俳句を詠んではいけないと誤解されているようだ。〉と坂口は『文人たちの俳句』の橙青の項で書く。

 橙青は俳句だけでなく、『霧笛鳴りやまず ― 橙青回想録』のほか『海鳴りの日々 ― かくされた戦後史の断層』『大久保武雄 橙青日記』全4巻など多くの著作を遺す。

 『海鳴りの日々』では、朝鮮戦争時に連合軍最高司令部の要請で朝鮮半島の海域に北朝鮮が敷設した機雷の除去を海上保安庁が特別掃海隊を編成、朝鮮水域に出動したこと。当時の吉田首相とマッカーサー最高司令官の間の遣り取り、意思決定の流れなども綴る。〈 GHQ占領下での掃海隊の行動は、朝鮮の平和と日本の平和のためであり、平和条約の早期締結に貢献した。〉と記し、掃海隊指揮官・山上亀三雄の句に自句を添える。

機雷撃てば水煙高し海の秋亀三雄

高麗の月如何にと思ふ時雨かな橙青

 86歳以降の詠句を纏めた最後の句集『老の杖』から3句記す。

はらからは皆仏なり盆供養

今生にホ句浄土あり菊枕

子規祀る虚子に仕へて生き残り

 俳人、大久保白村は、橙青の子息。            (敬称略)

(189)宮沢賢治の俳句

 『注文の多い料理店』『雨ニモマケズ』『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などの童話や詩が没後90年になろうとする今も広く親しまれている宮沢賢治。その名と作品が人口に膾炙する賢治だが、37歳で没するまでの生前に刊行されたのは詩集『春の修羅』と童話『注文の多い料理店』だけで、作家としては無名の存在だった。没後に詩人の草野心平らの目に止まり、残された作品群が次々に出版され、国民的作家となって今日に至っている。

 賢治は、童話、詩のほか1000首に上る短歌を遺した歌人でもあったことは、知られていたが、わずか30句ほどとは言え、俳句も詠んでいたことが、平成になって分かった。賢治の俳句に着目した結社「炎環」主宰の俳人、石寒太は、平成8年(1996)に『宮沢賢治の俳句』(PHP研究所刊)、同24年(2012)に『宮沢賢治の全俳句』(飯塚書店刊)で遺された全句を紹介、鑑賞。

 石は、最初の本の「あとがき」で〈 宮沢賢治が俳句をつくっている。そんなことを、読者の誰が知っていただろうか。(中略)私も宮沢賢治が俳句をつくり、しかも、何人かと付句までしていたことを知らされて驚いた。そして、彼のつくった俳句がどんなものか知りたいという興味から、稿を書き起こした。〉と書く。

 前の著書から16年後、石は続編『宮沢賢治の全俳句』の「まえがき」で〈 賢治の俳句は詩的俳句である。詩のことばが、生まのまま俳句の中にころがり込んでいる。それを傷とみるか、玉とみるかによって評価はまったく異なってくるだろう。私としては、それを玉とみておきたい。賢治の中に原詩(口語詩の原風景)を探し当てて読んでみると、その興味は倍加してくる。純粋に一行詩としてみてみると、意外に新鮮な世界がひろがってくる。〉と最初の本の「あとがき」に記した思いを再録、見方の変らぬことを特記する。

おもむろに屠者は呪したり雪の風賢治

 [鑑賞]〈(石による。)下五の「雪の風」が季語。いわゆる俳句的な季語とは、少し趣がちがっている。俳人ならば、「風花」とか「雪解風」とかするところを、賢治は「雪の風」と単純化してストレートに止めた。こんなところに賢治らしさがよく出ている。

 俳句評論の坂口昌弘も著書『文人たちの俳句』(本阿弥書店刊)の賢治の項で同句について、〈 生きていくために他の動物をころさなければいけない人間の業と性を思うことは、賢治の詩と童話に共通に見られるテーマである。〉と書く。

 賢治の菊の連作16句から2句。

たそがれてなまめく菊のけはひかな

狼星をうかゞふ菊の夜更けかな

                        (敬称略)