はいかい漫遊漫歩    松谷富彦

(208)假名かきうみし子にそらまめをむかせけり   杉田久女

 1909年(明治42年)に東京美術学校(現東京芸術大学)出身の美術教師、杉田宇内と結婚した杉田久女は、2女の母親となっていた26歳(1916年)のとき、小倉の自宅に逗留した次兄で俳人の赤堀月蟾に句作の手ほどきを受け、翌17年「ホトトギス」1月号に初めて出句。

  この年の5月、久女は東京の実家に里帰りしていた折、俳人、飯島みさ子宅で開かれた句会に参加、44歳ですでに俳句の巨人となっていた高浜虚子に初めて会う。

  この席でやがてライバルともなる先輩の長谷川かな女、阿部みどり女とも顔を合わせた。「台所雑詠」など女性の句作を推奨する巨匠の謦咳に触れ、先を行く女流の先輩と席を同じくする望外な土産を持って小倉に戻った久女の俳句に打ち込む日々が始まる。

  後に俳人となる長女昌子(石昌子)が小学校に入学した1918年の「ホトトギス」雑詠欄に虚子選で初めて虚子選で初めて下の1句が採られた。俳人と認められる嬉しい第一歩だった。

艫の霜に枯枝舞ひ下りし烏かな

 初入選の後の詠句は目覚ましく、「子育て俳句の秀作」と言われる次の句ほか2句が同年の「ホトトギス」8月号雑詠欄に入選する。

 假名かきうみし子にそらまめをむかせけり

 『最後の一句――晩年の句より読み解く作家論』(宗田安正著 本阿弥書店刊)で宗田は書く。〈 上達は早く、句作開始翌年には、《假名かきうみし》の子育て俳句の秀作を作る。《むかせけり》が女性でなくては詠めない。〉と。

  続けて、宗田は〈 その翌年には《花衣》の代表作も。なんともあでやかで女性の姿態までもが描かれる。まさに虚子のいう「清艶高華」(杉田久女句集序)昭和27)。台所俳句で女子の教養を高めようとした虚子の意図を遥かに突き抜けて男性の介入を許さぬ、男性俳句を脅かす未踏の世界の誕生。〉と記す。

花衣ぬぐやまつはる紐いろ

紫陽花に秋冷いたる信濃かな

朝顔や濁り初めたる市の朝

谺して山ほととぎすほしいまゝ

  1931年に40代になった久女の俳句は女流俳句の頂点に駈け上がる。31年、〈 谺して〉の句が「東京日々新聞」(現毎日新聞)、「大阪毎日新聞」(同)共催の「新名所俳句」で帝国風景院賞金賞20句に入選、受賞。水原秋櫻子の〈 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 〉後藤夜半の〈 瀧の上に水現れて落ちにけり 〉などの傑作句に伍しての栄冠だった。

  しかも〈 谺して〉とともに応募した 橡の實のつぶて颪や豊前坊 〉の句も銀賞という快挙だった。『最後の一句』で宗田は、〈 谺して 〉句の下五を得るために久女が英彦山に何度も登ったという努力のエピソードを記している。 ( 敬称略 次話に続く)

(209)鳥雲にわれは明日たつ筑紫かな   杉田久女 

 杉田久女は、〈 谺して山ほととぎすほしいまゝ〉句で帝国風景院賞金賞を受賞した翌年の1932年には、久女俳句の代表作となる下記の2句と〈 灌沐の浄法身を拝しける 〉の灌仏などを含む5句が「ホトトギス」雑詠の初巻頭を取る。

風に落つ楊貴妃桜房のまゝ

むれ落ちて楊貴妃桜尚あせず

 この巻頭5句搭載の快挙に山本健吉は、〈 豪華きわまりない 〉〈 久女の体情はこういう句に出ている 〉(『現代俳句 上巻』昭26)と激賞した。女流俳人のトップ集団に躍り出た久女は、この年32年、主宰誌「花衣」を立ち上げる。

 続いてその翌年33年にも、久女は下記の「宇佐神宮」5句で「ホトトギス」雑詠欄の巻頭を取る。

うらゝかや齋(いつ)き祀れる瓊(たま)の帯

藤挿頭(かざ)す宇佐の女禰宜はいま在さず

丹の欄にさへづる鳥も惜春譜

雉子なくや宇佐の盤境(いはさか)禰宜ひとり

春惜む納蘇利の面は青丹さび

 俳人の宗田安正は、自著『最後の一句――晩年の句より読み解く作家論』で書く。〈 久女の上代への憧れと詩魂が、小鳥囀る麗らかな春の社殿に、今はいない霊能者女禰宜を招び寄せ、その魂と交感する。詩人橋本真理は、この連作を久女の最高傑作と評価する。〉と。さらにその翌年34年にも久女は巻頭をとり、「ホトトギス」同人に迎えられる。

 女流俳人として順風満帆、絶頂期にあった久女に36年、「ホトトギス」10月号で日野草城、吉岡禅寺洞とともに同人削除の社告が出る。草城、禅寺洞は新興俳句との関わりから理由は明かだったが、久女本人はもちろん周囲も青天の霹靂の除名通告だった。理由はすべて主宰の虚子の胸の内。そこからさまざまな憶測、生臭い風評を生むことになり、熱望した句集刊行の序文も虚子に拒否され、10年後の1946年、敗戦の混乱の中、福岡県立筑紫保養院で腎臓病のため失意のうちに逝去、55歳だった。

 没して6年後の1952年(昭和27年)に長女で俳人石昌子が『杉田久女句集』を刊行、虚子が序文を寄せている。タイトル句〈 鳥雲にわれは明日たつ筑紫かな 〉は、句集の最後に置かれた死の4年前、久女51歳の詠句である。

 〈 (同人除名は)俳句への思いと師へのひたすらな尊崇の念から直情的に虚子にせまらざるを得なかった久女と、それを主宰者としてうっとうしく思う虚子との間に生じた齟齬が産んだものであったろう。…芸術性、完成度ともに、近代女流俳句史に凛として屹立する久女の作品である。その高みにまで達した女流俳人は、現在に至るまでいない。その精神の健全性の前には、どんな伝説も無化する。〉と宗田は記す。                  (敬称略)