はいかい漫遊漫歩        松谷富彦

(224)さびしさを支へて釣りし蚊帳の月  岡崎ゑん女

 銀座の酒場の女将俳人と言えば、大方は「卯波」の鈴木真砂女を思い浮かべるだろう。銀座には、もう一人、戦災で店が消失するまで永井荷風、井伏鱒二、泉鏡花、水上滝太郎、籾山梓月、石川淳、堀口大学、城左門らが常連の文学酒場「おかざき」の女将俳人がいた。俳名ゑん女(本名岡崎ゑ以)。

 ゑん女は、三十間堀河岸にあった船宿「寿々本」の家付き芸妓、岡崎かめのひとり娘。父親は東京府知事、文部大臣、枢密院議長などを務めた伯爵大木喬任(たかとう)で、ゑん女7歳のとき没した。かめは船宿を手直しして「酒亭寿々本」を開業、ゑん女は雙葉女学校を4年で中退、店を手伝い看板娘に。

 震災後、ゑん女は銀座裏に酒場「おかざき」を開く。中央公論社版『永井荷風全集』の月報に俳人、籾山梓月は記す。〈 ゑん女明眸皓歯、細腰楚々、当時佳人の名あり。〉

 ゑん女が岡崎艶栄(つやえ)の筆名で最初に発表したのは、永井荷風主筆の「文明」(第1巻第1号搭載の〈 いたましき悔と涙を持つ君に酒瓶ならぬはなむけもがな 〉を含む短歌33首。同誌第2号にも岡崎つやゑの名で〈 君かひく三味線に似てなつかしやおぼつかなしや春の雨ふる 〉など「絹針」12首、酒席ムードの作品を投稿している。

 ゑん女俳句が俳誌に最初に載ったのは、籾山梓月が編輯兼発行人の「俳諧雑誌」第1巻第2号(1917年発行)の雑詠欄の下記の一句。

門松の縄ほどきけり大晦日ゑん女

 加藤郁乎は著書『俳のやまなみ』(角川学芸出版刊)でゑん女について書く。〈 ゑん女は梓月により育てられた。発表する句の多くは「俳諧雑誌」に拠っており、句集を持たぬゑん女の俳句を探るには大正6年より同12年に至る第1次の「俳諧雑誌」や「初蝉」「不易」ほかの俳誌より丹念に拾うしかない。〉と。

「大火類焼後の新築漸く成らんとして」の前書つきで

荒壁にかよう日かげの冬めきぬ

みつまたの川ながれゆく燈籠かな

 みつまた句をゑん女の代表句として、郁乎居士は書く。〈 月の名所として江戸時代より知られた三俣、中洲のあたりをなつかしむには恰好の佳吟である。〉と。

方除に仮寝する家の寒さかな

摘草や朽木がくれの井戸一つ

 戦災で銀座の店を失ったゑん女は、戦後家政婦などを転々とした後、生活保護を受けて江戸川区内の老人ホームに1963年11月、京成小岩駅近くの無人踏切で電車にはねられ即死。帯を300円で質入れして、同室の老女3人に菓子を奢るつもりで出かけての事故だった。享年70。

 

(225)糸瓜忌や一灯を守る志   柴田宵曲 

 己を前面に押し出し、ひけらかすことを厭い、ひたすら正岡子規の業績を世に伝え、残すために身を尽くした俳人がいた。俳人の名は柴田宵曲。詩人、随筆家、書誌学の人でもあった。

 1897年(明治30年)に日本橋久松町の洋傘・毛織物卸商、柴田半六の次男に生まれ、転居して根岸小学校に転校した4年生のころから俳句の投稿を始めた。13歳の1910年に開成中学に進学したが、家の事情で半年後退学し、上野図書館に通い、読書と筆写の日々を送る。このとき正岡子規や夏目漱石の作品に接し、読み耽るとともに短歌、俳句、文章の投稿を続け、句会にも加わるようになる。

  1918年、21歳のときホトトギス社の編集員に採用され、宵曲は高浜虚子、寒川鼠骨、内藤鳴雪、三田村鳶魚らが行った宝井其角の『五元集』の輪講会の記録係を命じられる。メモを纏めた原稿が評価され、以後、宵曲の裏方人生の歩みがスタートする。やはり詩人、俳人で江戸俳諧考証家の故加藤郁乎の著書『俳のやまなみ』(角川学芸出版刊)から引く。

 〈 柴田宵曲は正岡子規の遺業を世に出すために生を享けたような律儀一筋の俳人、年々9月19日の子規忌を修することを怠らず師恩に報いた寒川鼠骨の素懐また吟骨を黙々と守り継いだ。宵曲なかりせば子規の全文業はとっくの昔、散逸の憂き目に遭っていたであろう。

  今日、われらが目にする元版の子規全集、さらには俳句分類のことごとくは鼠骨翁の計らいにより根岸の子規庵に日参して宵曲居士が一字一字たしかめ改め書き取り写し世に供したものばかりである。〉さらに引く。

 〈 宵曲居士が鼠骨翁董督(とうとく)のもとに根岸の子規庵で居士愛用の机を据えて子規全集の編纂のために居士の遺稿を浄書しはじめるのは大正12年、関東大震災から3月と経たないころである。

  大正7年にホトトギス発行所に入社した宵曲は同年6月には鼠骨の門をくぐり、画期的な『五元集』論講の『其角研究』が生まれた。〉

 大正11年、宵曲は篠原温亭、目黒野鳥、島田青峰や国民俳句会の俳人らと俳句誌「土上」を創刊。翌年、4年間勤めたホトトギス社を退社する。宵曲が本格的な句作をはじめたのは、ホトトギス社に入ったころからだが、1966年(昭和41年)に69歳で没後に編まれた『柴田宵曲文集』(全8巻)に約3万句の遺句から3238句収めた『宵曲句集』がある。3句を記す。

平凡に帰すべき句境冬籠

図書館の卓に新たや夏帽子

糸瓜忌や久に相見ず根岸人

 〈 いわゆる縁の下の力持ち、みずからの名を刻するなど野暮の所業をいさぎよしとしなかった宵曲居士は近代俳句の墓守に徹した。一灯を守る志、がなければ今日のお祭り騒ぎにひとしい子規ブームなど起り得る道理はない。〉と加藤郁乎居士は『俳の山なみ』に記す。