コラム「はいかい漫遊漫歩」    松谷富彦

(96)ゆっくりと花びらになる蝶々かな   小林凜

 本コラムの39話(平成28年5月号)と70話・71話(同29年9月号)で紹介した “ランドセル俳人 ”小林凜君も高校生になり、俳句・エッセイ集『ランドセル俳人からの「卒業」』(ブックマン社刊)を平成30年4月、上梓した。

  小学校5年生のとき、〈 いじめられ行きたし行けぬ春の雨――11歳、不登校の少年、生きる希望は俳句を詠むこと 〉の長いサブタイトル付き句集『ランドセル俳人の五・七・五』(同社刊)、翌年には聖路加病院の日野原重明先生との往復書簡付き自句自解句集『冬の薔薇立ち向かうこと恐れずに』(同社刊)を刊行。「卒業」は、それに続く第3弾である。

 高校生俳人となった凜君(本名凜太郎)が、俳句を詠むことで培った鋭い観察眼で綴るエッセイ。そこには小中学校九年間の絶望的な「いじめ」の体験記録が生々しく再現され、読む者の胸を打つ。凜君は,静かに書き起す。

 〈 僕は、いくつもの扉の前に立っていた。扉にはそれぞれ「小学1年」「小学2年」「最初の中学校」「2校目の中学校」などと、各学年の札が貼ってあった。「小学一年」の扉を開けて覗くと、そこには、同級生の男女からサンドバックにされている、あざだらけの僕がいた。先生は見て見ぬふりをしている。僕は、何も言わずにその扉を閉じた。〉

 〈 あるとき、休み時間に教室内を歩いていると、背中に強い衝撃を感じ、僕はうつぶせに倒れ込んだ。左の顔面を強く床に打ちつけた。激しく痛んだ。薄眼を開けると、逃げていく後ろ姿が見えた。彼はクラス一の悪ガキ大将で、頻繁に僕を痛めつけていた。保健室で手当てを受けたが、顔面の左側は湿布で覆い尽くされ、左眼は腫れ上がっていた。…突き飛ばした犯人の名を担任に伝えると、先生は、「本人は否定しています」とだけ家族に言った。結局、そのときは「僕が勝手にこけた」という判決になった。〉

 〈 さらに、こんなこともあった。夜、風呂に入ったとき、母が悲鳴を上げた。僕の腰から尻にかけて、広範囲に靑あざができていたのだ。もう少し上なら腎臓破裂が起こっていたかもしれない、と家族は心配した。それもあの悪ガキ大将の仕業だった。…翌日、彼の名前を出しても、先生は全く認めようとしなかった。その後、家族が青あざの写真を見せると、ようやく先生が「この子がやった」と連れてきたのは、なんと、事件とは何の関わりもないおとなしい同級生だった。先生は、犯人をでっち上げたうえに、彼に謝れと言ったが、僕は「彼は関係ない。だから無実の人の謝罪は聞かない」と、その場を立ち去ろうとした。しかし、先生は僕の首根っこをつかみ、彼の謝罪を聞かせた。無理やり謝罪を聞かせた先生の意図は何だったのだろう。〉先生たちの不可解な言動は続く。(続きは次話に)

(97)ぬかるみに車輪とられて春半分   小林凜 

 引き続き凜君の俳句・エッセイ集『ランドセル俳人からの「卒業」』から引く。

 〈 教室で本を読んでいると、ある女子生徒が、いきなり僕から本を奪い取った。「返して!」と叫び、相手を捕まえようとしたが、その女子は「パス!」と言ってそばで構えていた仲間に僕の本を投げた。大事な本が、まるでボロ雑巾のように宙を飛び交う。その時、扉が開いて誰かが入ってきた。と同時に、本は宙を飛ぶのをやめた。入ってきたのは祖母だった。何か胸騒ぎを感じて駈けつけたのだという。祖母の背後に大人が2人きた。1人は担任の先生だ。もう1人は、後に僕の運命を大きく変える存在となった女の先生だ。

 本を投げ合って逃げる子たちの間を「返して!」と叫びながら追いかける僕の姿を見た祖母は、「こんな所にいなくてもいい、もう帰ろう」と僕の手を引いた。すると現場を見てもいなかった先生は、「みんなは凜太郎さんに本を渡そうとしただけです」と言った。その時、聞きなれない声がした。「私が凜ちゃんを引き取ります!」教室は静かになった。振り返ると、担任と一緒にいた先生だった。

  僕の右手は祖母からその先生に引き継がれ、2人で廊下を歩いた。担任の手よりずっと温かかった。僕たちは「通級指導教室」(週に1、2度、学習などの個別指導を受ける教室)と書かれた教室の前にきた。先生はそこの担任だった。〉

 翌日から優しい先生とともに歩む凜君の新しい学校生活が始まり、1年生の終りまで続いた。けれども、2年生になると、また受難の日々が始まる。

  教室から出ようとした凜君は、後ろから男の同級生に両足首を掴まれ、床に顔面を打ちつけた。凜君は書く。〈 母は担任の先生に、「小さく生まれたので、頭部を打撲すると命にかかわる危険が伴う。極力注意して生活するように医師から言われている」と説明した。だが、担任は母にこう返した。「そんなに頭が心配ならヘルメットでも被ればどうですか?」家族は失望した。僕もだ。〉

 凜君が3年生のとき、祖母の郁子さんが、当時の校長に不登校になった孫の様子を伝えたくて俳句を見せた。〈 校長から思いがけない言葉が返ってきた。「俳句だけじゃぁ食べていけませんで」そういって、笑ったという。祖母は帰ってきて、「8歳や9歳で将来の仕事がきめられますか」と母に怒りをぶつけた。〉

 この稿を書いているとき、2016年秋、神戸市の市立中学に通う3年の女生徒がいじめを苦にして自殺した問題で、自殺直後に生徒6人と面談、いじめを窺わせる聞き取りメモを作成したが、市教育委員会の担当者が校長に指示してこれを隠蔽していたことが、明らかになった。教育現場の恐るべき退廃。いや、国政も中央官庁も、嘘と隠蔽が渦を巻く。