コラム「はいかい漫遊漫歩」      松谷富彦

(98)「戦争記録画」を描いた絵描きたち

 雨模様の平成30年9月1日、上野の東京都美術館に出かけ、「没後50年 藤田嗣治展」を見た。主催者が「史上最大級の大回顧展」と銘打つに相応しい120点に及ぶ名作、力作を揃えた見応えある回顧展だった。

 実は、コラム子を上野に駆り立てたのは、エコール・ド・パリの寵児のひとりであった画家の半世紀を越える優れた画業を辿るだけではなく、出品されている2点の100号、200号の戦争記録画の大作「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」をこの眼で実見することだった。

 日本画の技法を油絵に取り入れた面相筆による輪郭線、「乳白色の肌」の裸婦像などの見事さに息を呑みつつ来場者の列の中で作品を巡ること2時間、ようやく80番目、81番目の戦争記録画に辿り着いた。

  2つの大作は、どちらも茶褐色の暗い色調の画面いっぱいに前者は日本兵、後者は一般人の男や女、子供、嬰児が犇めき命を絶つ壮絶な地獄絵図だった。

  コラム子だけでなく、その前に立った来場者の誰もが息を止め、後ずさりする凄惨な画面。この一角だけ前に立った人の多くが急ぎ離れて行った。

 太平洋戦争中、軍部が戦意高揚のため「作戦記録画」の名目で著名画家たちに描かせた戦争画。日中戦争勃発から9カ月後の昭和13年4月に、陸軍は中村研一、向井潤吉、小磯良平ら描写力の優れた画家8名を従軍画家として中国大陸に派遣したのを皮切りに、翌5月には川端龍子、鶴田吾郎、伊原宇三郎らが軍の嘱託として戦線の各地に派遣された。(日本大学大学院総合社会情報研究家紀要「GHQと153点の戦争記録画―戦争と美術―」増子保志著による。以下、同紀要から引く。

  軍部は日米開戦の翌年昭和17年4月、「徴用令」によって、藤田嗣治、伊原宇三郎、中村研一、宮本三郎、猪熊弦一郎、小磯良平、鶴田吾郎、川端龍子、福田豊四郎、吉岡堅二ら第1次徴用画家15名に戦争記録画の制作を命じた。その後も軍部は著名画家たちを徴用し、マレー、フィリピン、ビルマ、仏印などへ派遣して戦争記録画の制作に当らせた。

  従軍画家たちの描いた作品は、戦争の拡大とともに数多くの美術展で発表、展示された。小磯良平の『娘子関を征く』は帝国美術院賞を受賞、藤田嗣治の『十二月八日の真珠湾』『シンガポール最後の日』、中村研一の『コタ・バル』、宮本三郎の『山下・パーシバル両司令官会見図』など後に戦争記録画の名作と言われる作品が多く出品された。

〈 官展や団体展の有力な洋画家たちが腕を振るった作品には、熱気と緊張感があふれている。…国家の求めに生きがいを感じ、自らの技術の限りを尽くして戦争という未知との課題に取り組んだ結果とも言えよう。〉と紀要の著者、増子保志さんは書く。(次話「無期限貸与の形で戻った戦争記録画」に続く)

(99)「無期限貸与」の形で戻った戦争記録画

 緒戦の勝利は束の間で、日々戦況が悪化して行く中で、従軍画家たちの戦争記録画の画風も戦争前半期の外征ムード、勝利気分を反映した絵解き風の作品から現実直視の重い絵へと変化し始める。前話で紹介した増子保志さんの紀要から引く。

 〈 戦争末期に至っては、玉砕相次ぐ戦闘が肉弾戦と化し、殺戮の臭いが漂うようになると、画風は一変して異様な鬼気を感じさせるようになった。その中でも藤田の作品は「他の画家やそれまでの自身の制作とも異なる不思議な“熱気”」を帯びるようになる。特に、《アッツ島玉砕》(昭和18年制作)の壮絶さは、もはや戦争賛美といえるものではなく、現代の地獄絵の様を呈している。〉

 そして、増子さんは、藤田の戦争記録画を軍部のプロパガンダの文脈に繋ぎ止めていたのは、ひとえにタイトル(画題)の力だったと分析する。

 〈 《アッツ島玉砕》は、同胞のむごたらしい死出の旅を描いた絵である。この絵に果たして戦意高揚のプロパガンダの意図が伺えるものであろうか。藤田の戦争記録画をめぐって、一番問題となるのは、それが「戦争の悲惨さを描いたものなのか」それとも「戦争を美化したのか」ということである。

  しかし、昭和20年4月に公開された藤田の《サイパン島同胞臣節を全うす》では、子供や女性を含めた夥しい数の日本人の死者が描かれている。日本兵の死体を描く事が禁止されていたにもかかわらず、一般国民の死体を描く事は可能であった。藤田は、この絵をアメリカの『タイム』誌に掲載されたサイパン島玉砕の様子を報じた記事をもとに書いたと言われている。〉

  絵が公開された昭和20年春は、本土決戦が現実味を帯びていた時期であり、それ故に一億玉砕を叫ぶ軍部のプロパガンダとして役割を担うため藤田の戦争記録画が必要とされたのだ、と増子さんは指摘する。

  前話の増子さんの記述を繰り返すが、藤田たち徴用された著名画家の多くは、〈 自らの技術の限りを尽くして戦争という未知との課題に取り組んだ。〉その結果は――反攻を開始した米軍が日本の占領地域を次々に奪還、日本軍の施設や建物などに飾られていた戦争記録画を接収する中で、〈 その質の高さに驚いたと言われる。〉と紀要は記す。

  接収された153点の戦争記録画は、アメリカに渡った後、20年の曲折を経て昭和45年4月、米国政府から日本政府への「返還」ではなく、「無期限貸与」の形で戻され、東京国立近代美術館に収蔵された。(次号に続く)