自由時間 (57) 天正遣欧少年使節 山﨑赤秋
2008年のこと、イタリア北部の個人宅から東洋人と思しき男性の肖像画が発見された。縦五十三センチ、横四十三センチの油彩画で、茶色の上着、黒い帽子、白いフリルという十六世紀後半のスペイン風の衣装を身に付け、薄く口ひげを蓄え、やや斜視気味の目が静かにこちらを見ている。絵の裏には、「ドン・マンショ日向国王の孫/甥 豊後国王フランチェスコ(大友宗麟)より教皇聖下への大使 一五八五」という記述があった。この記述から、肖像画の主は、天正遣欧少年使節の主席正使・伊東マンショであると確認された。
1582年2月20日(天正10年旧暦1月28日) ポルトガルの定航船が、折からの北風を受けて長崎港を出帆した。船には、九州のキリシタン大名ゆかりの少年四名とその随員八名からなる遣欧使節団が乗っていた。少年たちはいずれも十三、四歳という若さだった。主席正使・伊東マンショ、正使・千々岩ミゲル、副使・中浦ジュリアン、副使・原マルティノの四名は、キリシタン大名・有馬晴信が日野江(現・島原)城下に建てたセミナリヨ(初等神学校)の第一期生の中から選ばれたものである。
ローマへの使節派遣を発案したのは、カトリック教会の司祭でイエズス会東インド管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノである。その目的は、①ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること、②日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達に語らせることにより、布教に役立てたいということ、であった。
一行がポルトガルの首都リスボンに着いたのは、1584年8月10日、長崎を出発してから二年半の月日が流れていた。何しろ当時の航海は風まかせである。風がなければにっちもさっちもいかない。全日程約九百日間のうち、船に乗っていたのは三百十日。残りは、寄港した七ヶ所で、風待ちのため、荷積みのため、あるいは便船を待つために上陸して過ごした。特にマカオとインドのコーチンでは、いずれも約八ヶ月ずつの滞在を余儀なくされている。
いよいよ一年八ヶ月に及ぶポルトガル・スペイン・イタリアの旅が始まった。まず、リスボンでは、枢機卿(スペイン国王にしてポルトガル国王も兼ねるフェリペ二世の甥、ポルトガル国王代理)の王宮に招かれて歓待を受ける。11月25日、スペインの首都マドリードでスペイン国王フェリペ二世の王宮に招かれ歓待を受ける。翌年3月1日、マヨルカ島を経由しイタリアのリヴォルノに到着、トスカーナ大公国に入る。ピサで大公に謁見。その夜、大公妃主催の舞踏会に招待され、大公妃の相手をして踊る。
3月22日、フィレンツェ、シエナを経て、ローマに入る。翌日、教皇グレゴリウス十三世に謁見。教皇は使節の到着を待ち焦がれておられたようで、涙を流しながら一人一人抱擁して下さった。和服が奇異に思われていると聞いて、一人三着分の洋服を仕立ててくださったり、滞在費を下さったり、本当に心から温かく歓待された。招かれて内謁し、歓談することもたびたびだった。その教皇が、4月10日に亡くなる。八十四歳だった。4月24日、新教皇決定。シクストゥス五世。5月1日、戴冠式。伊東マンショらは、各国大使と同列の位置で参列する。
そろそろローマを後にしようとしていたとき、名誉なことがあった。ローマ市民会からは市民権を授与され、教皇からは黄金拍車騎士に任ぜられたのである。
6月3日早朝、ローマを出発し、ジェノヴァに向かう。途中、アッシジ、ボローニャ、ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの諸都市に滞在し、いずれも大歓迎を受ける。前述の肖像画は、ヴェネツィア共和国評議会が当時の代表的画家ティントレットに発注したものである。
歓迎攻めのイタリアの旅を終えて、ジェノヴァを船出したのは8月9日。同16日、バルセロナ着。途中、マドリードでフェリペ二世に再会し、リスボンに戻ったのは11月末のことであった。
風を待って、リスボンを出発したのは、1586年4月13日。帰路は往路より難航した。ゴアまで一年以上かかり、ゴアやマカオでの滞在も長引いたためである。というのは、1587年7月に秀吉が伴天連追放令を発布していたからである。そこで一行は、インド副王(ポルトガル領インド総督)の使節の資格で入国することにしたのである。長崎に帰着したのは、1590年7月21日。出発してから八年五ヵ月が経っていた。
翌年3月、聚楽第においてインド副王の使節として秀吉に謁し、西洋音楽を演奏する。秀吉は献上品を大いに喜び、一行を厚くもてなした。伊東マンショら四人は、秀吉に気に入られ、仕官を強く勧められるが、司祭を目指していたので、みな断っている。
伊東マンショは、マカオへ留学して司祭になり、各地で活動。最後は長崎のコレジオ(高等神学校)で教えていたが、1612年病没。享年四十三。
千々岩ミゲルは、1601年に棄教。大村藩士に。
中浦ジュリアンは、司祭として各地で活動。1614年のキリシタン追放令以後は地下に潜伏していたが、1632年に捕縛さる。翌年、穴吊りの刑に処せられ、四日後に死亡。享年六十五。
原マルティノは、マカオに留学して司祭になり、各地で活動するが、キリシタン追放令を受けてマカオへ移住。1629年にマカオで死亡。享年六十。
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