自由時間 (63) ウィーンとベートーヴェン(中欧紀行④)           山﨑赤秋

 

 ウィーンは音楽の都とよばれる。ウィーンは、13世紀から20世紀までの長きにわたって中欧を支配したハプスブルク家の帝都であった。ハプスブルク家は芸術のよきパトロンであった。宮廷の手厚い庇護の下、多くの音楽家がウィーンに集まった。宮廷を取り巻く貴族たちもそれに倣って音楽家のパトロンとなるのに熱心だった。そして、素晴らしいことに宮廷の劇場で上演されたオペラや演奏会は市民にも開放された。
 さらにカトリック教会も音楽の普及に重要な役割を果たした。教会同士が競うように新しいミサ曲などの教会音楽を作曲家に委嘱し、教会でそれを演奏した。その演奏会は無料で誰もが聴くことができた。そのようにして、宮廷・貴族から市民まで音楽愛好家が増えていった。そしてウィーンは音楽の都となった。 

 
 ウィーンの南部にウィーン中央墓地という欧州第2の墓地がある。その広大な敷地の一角に、著名人の墓が集められた名誉墓地区画があるが、その一区画はウィーンで活躍した音楽家たちに捧げられている。モーツァルト(埋葬場所不明のため記念碑のみ)、ベートーヴェン(改葬)、シューベルト(同)、ヨーゼフ・ランナー、シュトラウス一家4名、ブラームス、スッペ、ヴォルフ、グルックなどの錚々たる作曲家の墓碑が美しく並んでいる。さすが音楽の都だと思う。
 彼らの中で、ウィーンに最も多くの足跡を残してるのはベートーヴェンである。彼は、葛飾北斎(93回)には及ばないがかなりの引っ越し魔で、ウィーン在住中の35年間に79回も引っ越している。それだけ足跡も多い。そのいくつかを訪れてみよう。

 
 その前に、ウィーンに来るまでの彼の略歴を見ておく。ベートーヴェンは、1770年12月16日、現ドイツのボンで、宮廷歌手の父と宮廷料理人の娘である母の長男として生まれる。酒飲みの父に金になると見込まれ4歳からピアノ・オルガン・ヴァイオリン・ヴィオラの猛訓練を受ける。8歳でピアノの初公演。11歳から作曲を学ぶ。12歳で楽譜の処女出版。15歳で宮廷オルガニストに就任。17歳のとき、尊敬するモーツァルトのレッスンを受けるべく初めてウィーンを訪れるが、母重体との知らせがあり、レッスンが始まる前に帰郷。間もなく母死没(肺結核)。その後、アル中になって失職した父に代わって、一家(父、弟2人)の面倒を見るようになる。18歳のとき、ピアノを教えていたブロイニング家の令嬢エレオノーレ(2歳下)に淡い恋心を抱く。やがて友情となり、彼女が彼の親友の医師と結婚した後も3人の間の友誼は終生続いた。19歳でオーケストラのヴィオラ奏者に。その年、ボン大学の聴講生になりドイツ文学を学ぶ。22歳のとき、ボンを訪れたハイドンにその才能を認められて弟子入り。そして、愛する美しきボンを後にし、ウィーンに移住したのである。
 ウィーンのとある侯爵の家に落ち着いたベートーヴェンは、ハイドンだけではなく、彼に内緒で当時の名立たる作曲家からも熱心に作曲を学んだ。そのかたわら、ピアノの即興演奏の名手として広く人気を博すようになる。その頃ウィーンでは、与えられた主題を基に即興で変奏するという形の演奏会が流行していた。彼はこれが得意だった。25歳で公開演奏会デヴューを果たし、自作の「ピアノ協奏曲第2番」を披露する。弟2人をウィーンに呼び寄せ、兄弟仲良く暮らすことができるようになる。家庭的にも一番平穏な時期であった。(上の弟はピアノ教師、下は薬剤師)
 しかし、平穏な時期は長続きしなかった。耳がだんだん聞こえなくなってきたのだ。「僕は惨めに生きている。この2年来、人々の中へ出ることを避けている。人々に向かって、僕は聾なのだ、と告げることができないために。僕の職業が他のものだったらまだしもどうにかいくだろうが、僕の仕事では、これは恐ろしい状況だ」と30歳のときの友人あての手紙に書いている。そして、翌年、有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」を書く。弟に宛てたもので、難聴に絶望し自殺も考えたが、自らの使命を全うするために克服したい、という内容だ。死後隠し戸棚から発見された。それが書かれた家が残っており、博物館になっている。
 ウィーンの中心部から路面電車で北へ20分ほど行ったところにその博物館はある。素敵な中庭のある美しい家だ。展示室は六つのテーマに分かれている。①ウィーンへの移住、②ハイリゲンシュタットでの休息、③作曲、④収入、⑤当時の演奏会、⑥後世に遺したもの。展示品で一番印象に残るのは、デスマスクである。肝硬変で亡くなった作曲家56歳の死に顔。死後数時間後にとられたものだ。頑固そうな鼻、意志の強そうな真一文字に結ばれた口。
 

 博物館から北へ200㍍ほど歩いたところに小川があり、川に沿って散歩道がある。「ベートーヴェンの径」と名付けられている。彼がよく散歩をし、交響曲『田園』の想を得たところだ。径を行くとベートーヴェン・ルーエ(休息所)があり、記念像が建っている。
 その他にも、「傑作の森」といわれる34歳からの10年間にたびたび住んだパスクヴァラティハウス(博物館)、ウィーンの森にある保養地バーデンの第九交響曲の家、立派な記念碑のあるベートーヴェン広場などゆかりの場所が多い。
 今、彼の弦楽四重奏曲を聴きながら、この稿を書いている。この曲を聴くといつも鳥肌の立つ思いがする。うん、冷房がききすぎかな。