自由時間 (72)  ノートル・ダム            山﨑赤秋

 4月15日、パリのノートル・ダム(聖母)大聖堂が炎に包まれた。あの美しいステンドグラスのバラ窓も壊れたのかと心配したが、無事だった。焼け落ちたのは木造部分で、石造部分の損傷はそれほど深刻ではなかったようだ。
 出火したのは午後6時50分頃、1時間後に尖塔が崩落し、次いで屋根の大半が焼け落ちた。完全に鎮火したのは翌日の午前10時頃のことである。その間、パリ市民たちは近くの広場や公園に集まり、炎と煙に包まれる大聖堂を悲しげに見守りながら、悼むように静かに「アヴェ・マリア」を口ずさんでいた。
 91メートルの尖塔が崩れ落ちたときは悲鳴が上がったが、規模こそ違え、2001年9月11日のニューヨーク・ワールド・トレイド・センターの崩落を見ているときと同じような感覚に襲われた。そのあと、アメリカでは星条旗が飛ぶように売れたが、今回、フランスでは、ノートル・ダム大聖堂の写真や絵、レプリカ、さらにはユーゴーの小説『ノートル・ダム・ド・パリ』までが飛ぶように売れたという。
 ノートル・ダム大聖堂の着工は1163年、ルイ七世の治世下であった。日本では、平清盛が権力を掌握しようといろいろ画策していたころのことである。最終的な竣工は1345年、182年後のことであった。

 フランス革命(1789~99)のときは公共財産となり、「理性の神殿」とされ、聖母マリアの彫像に代わって自由の女神が置かれたり、いろいろな彫像が破壊されたりした。果ては、倉庫として使用されるようにもなった。
 カトリック教会に戻したのはナポレオンである。簡単に修復して貴婦人のように白く塗り、その中で自の戴冠式を行った(1804)。その時の様子をダヴィッドが巨大な絵にしている。それを見る限り、見かけ上は問題ないように修復されている。(オリジナルはルーヴル美術館で、画家自身による複製画はヴェルサイユ宮殿で観ることができる)

 ナポレオンの行なった修復は表面的なもので、大聖堂の荒廃はひどく、市当局は解体を検討したほどだ。しかし、ここに救世主のごとく文豪ヴィクトル・ユーゴーが現れる。彼は、大聖堂が主人公ともいうべき小説『ノートル・ダム・ド・パリ』(1831)を書く。これが大成功をおさめ、大聖堂保存の機運が高まる。
 ついに保存費用が予算化され、1844年から本格的な修復工事が始まる。完工までおよそ20年がかかった。焼け落ちた尖塔が建設されたのはこの時である。(13世紀には尖塔があったのであるが、1786年に取り壊されていた)

 ノートル・ダム大聖堂は、パリ市民のみならずフランス国民の心のよりどころというべき存在である。百年戦争(1337~1453)でパリが解放されたとき、パリ市民は、大聖堂前の広場に集まって解放を祝った。1918年に第一次世界大戦が終わったときも、ここに集まって戦勝を祝った。44年8月、第二次世界大戦で占領されていたパリが解放されたときも、大聖堂で祝賀会が催された。ドゴール大統領やミッテラン大統領の鎮魂ミサはこの大聖堂で行われた。

 東京・日本橋のたもとに、日本国道路元標があるが、フランスにも、各地への道路の距離を測る起点がある。「POINT ZERO DES ROUTES DE FRANCE」(フランスの道路のゼロ地点)という。その文字が刻まれた、直径70センチメートル位の石盤が大聖堂前の広場に埋め込まれている。フランスでは道路もノートル・ダム大聖堂に中心があるのである。

 このノートル・ダムに魅せられた日本人がいる。哲学者の森有正である。多くの誠実かつ緻密なエッセイを残しているが、題名に「ノートル・ダム」を含むものは「ひかりとノートル・ダム」「遥かなノートル・ダム」「赤いノートル・ダム」「黄昏のノートル・ダム」「遠ざかるノートル・ダム」などの五篇。彼の思索の重要な機縁としてノートル・ダムがあることを示すものだ。
 森は1911年生まれ。父は牧師で、祖父は初代文部大臣の森有礼。6歳からフランス語、ラテン語を学ぶ。暁星小・暁星中・東京高を経て38年に東京帝大文学部哲学科を卒業。48年東大文学部仏文科助教授に就任。50年フランスに留学。52年東大助教授退職。フランス国立東洋語学校、パリ大学東洋学部教授パリ国際大学都市日本館館長。日本に永住帰国を決めた矢先、76年にパリで死去(血栓症)。享年64。
 彼のエッセイから「ノートル・ダム賛歌」とでもいうべき一文を写す。
「僕は朝、日の出から数時くらいの間、ノートル・ダムを見るのが好きである。カテドラルの外陣部は東向きに建てられているので、斜めに射す朝日の光を正面から浴びたその姿は実に美しい。ことにアルク・ブータン(扶壁拱)の上下に幅のある面が光線を受け、しかもそれは風雨に激しく曝されていて黒い汚れが全くないので、石面に直角に射す朝日の光に純白に輝き、黒く染まった本堂の壁面の上に何条も真白い帯を懸けたようで、建築の規則正しい構造と相俟って、その複雑な美しさは何とも譬えようがない。殊に正月を過ぎて少しでも日が長くなり始めると、僅かずつ強度を増す光がたちまち敏感に反映し、白はますます純粋に白くなり、パーク(復活祭)の頃ともなれば、天気の良い日は、カテドラル全体が白銀の炉のように輝く。」(「ひかりとノートル・ダム」より