自由時間 (85) ヴェニスに死す 山﨑赤秋
いま、アルベール・カミュの『ペスト』が読まれている。新潮文庫版は、1月の中国・武漢のロックダウン以後売れ行きが急増し、累計100万部を突破したそうだ。日本だけではなく、ヨーロッパでもベスト・セラーになっているらしい。1947年に発表された小説である。このときカミュ34歳。
舞台は当時フランス領であったアルジェリア第2の港町オラン。植民地の中核都市らしく、市民たちは金もうけのためなら一生懸命働くという経済最優先の町。その街路で、主人公の若手医師が鼠の死骸を見つける。日に日に死骸は増えていく。時同じくして、不可解な症状で死んでいく患者が増えていく。ペストだった。やがて爆発的に感染が拡大し、市はとうとう封鎖される。市外との往来は禁止され、市民は城壁の中に閉じ込められる。手紙も禁止される。ペスト菌という目に見えない敵との戦い。医師たちの疲労、事なかれ主義のお役所、市民の不安・恐怖。食料品やガソリン・電力の供給が制限され、店舗の閉店が相次ぐ。開いている店には長蛇の列。物価は高騰し、貧しい人々の生活を直撃する。放火や略奪が頻発する。その制圧のために憲兵には武器の使用が許可される。ロックダウンされたのは5月であったが、夏を過ぎても流行は続き、鈍化の兆しが見え始めたときにはクリスマスを迎えていた。市の封鎖が解かれたのは2月である。
ペスト菌を新型コロナウイルスに置き換えると、世界各地の現状を描写したかと錯覚するほどだ。その共感が、ベストセラーになっている理由だろう。
感染症あるいは疫病を扱った文学作品は沢山ある。その中で、明けても暮れても新型コロナウイルスのニュースがあふれている今、イタリアからのニュースを見ていて思い出した作品がある。トーマス・マンの『ヴェニスに死す』である。
アドリア海に浮かぶ水の都ヴェニスは、3月8日に封鎖され、出入りが厳しく制限された。それに先立ち、2月に行われていた、ヴェニス最大のイベントであるカーニバルは、最終日の2日前に中止された。サン・マルコ広場、サン・マルコ寺院、ドージェ宮殿などの観光名所から人影が消えた。
ヴェニスは年間2300万人の観光客が訪れる一大観光地である。封鎖によって、観光業は一瞬にして吹き飛んでしまった。8割のホテルは休業を余儀なくされ、ゴンドラは動かなくなった。移動制限は、イタリア全土に拡大され、外出は原則禁止となり、薬局とスーパー以外の全ての商店とレストランの営業は禁止された。ヴェニスは死んだ、かのようだった。
トーマス・マンが1912年に発表した『ヴェニスに死す』に登場する疫病はコレラである。
主人公は初老の小説家。執筆に疲れて息抜きの旅に出る。落ち着いたところはヴェニス。一流ホテルに部屋をとる。その部屋は3階にあって、窓からは海と渚が展望できた。夕食を待つロビーで、ポーランドの上流階級の家族を見かける。その中に、14歳くらいの完全に美しい少年がいた。まるで古代ギリシャの彫像のようであった。彼はすっかり魅せられてしまう。少年のとりこになった彼は、ホテルで見かけたり、浜辺で遊んでいる姿を見たりするだけでは満足できなくなり、自制心を失って、ストーカーのようになってしまう。そのころ、ヴェニスには疫病が迫っていた、コレラだ。ホテルに出入りする人の数が減っている。街を歩くと異臭がする。消毒薬の匂いだ。人々に訊くと、予防策だとしか言わない。それが公式声明だった。ひそかに街を出るように勧められるが、少年からは離れたくない。そして、昼食後に少年たちが旅立つと聞いた朝、浜辺の椅子にもたれて、少年たちの遊ぶ様子を見ながら、彼は首をうなだれ意識を失っていった。
イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティは、この原作に基づき、ほぼ忠実に映画化した(1971)。ただし、主人公は作家ではなく作曲家になっている。隅々まで監督の目が行き届いた美しい映画だ。そして、美少年役のビョルン・アンドレセン(スウェーデン人)の美しいこと。当時15歳くらいであるが本当に美しい。(現在、日本で上映中の『ミッドサマー』で崖から飛び降りる老人役で出ている。もちろん、往時の面影はない)
この映画のテーマ曲として使われているのは、グスタフ・マーラーの交響曲第五番の第四楽章「アダージェット」である。マーラーの交響曲といえば、管楽器がよく働くことで知られているが、この「アダージェット」はハープと弦楽器だけで演奏される珍しい曲だ。静かにゆっくりと奏でられるこの曲は、まるで後朝のまどろみのようだ。これはマーラーが恋人アルマに宛てたラブレターであると言われている。
5月18日、イタリア全土で外出原則禁止措置が解除され、レストラン等の営業が再開された。6月3日、移動制限が解除され、国内の移動が自由になり、EU諸国からの入国ができるようになった。これから美しいヴェニスの再生が始まる。
ロックダウンによって、ヴェニスの運河の水がきれいになり、魚やクラゲの泳ぐのが見えるようになった。インドの北部では大気がきれいになり、何10年ぶりかでヒマラヤ山脈が見えるようになった。
新型コロナウイルスのパンデミックで、経済活動をやめれば自然が回復するということが分かった。
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