曾良を尋ねて (131)           乾佐知子
─岩波庄右衛門正字御用人壱岐へⅠ─

  宝永7年(1710)3月1日、九州への巡見使の一行は江戸を出立した。巡見コースは筑前、筑後、壱岐、対馬、五島列島、肥前、肥後、薩摩、大隅、日向であった。西海にある絶海の孤島を目指す旅で60歳を越えた曾良にとっては、かなり厳しいものであったと思われる。
 一行は東海道、京街道を順調に進み、大阪港より300石船に分乗して途中姫路、鞆、上関に寄港し、筑前国門司の港に到着したのは4月2日であった。
 陸路を小倉から始めた一行は、翌日は玄界灘に沿い若松、芦屋を経て唐津街道を進み福岡城へと入った。この城は初代藩主黒田長政の築城になり商業都市として栄えていた。貝原益軒が出た土地でもあり、特産品の有田焼が有名である。
 高西桃三著『俳人曾良の生涯』によれば「九州方面の巡見使一行にとって重要な目的の一つは、朝鮮通信使に対する福岡藩の応対を調査することであった。そのために一行は玄界灘の相島(あいのしま)へ向かった。朝鮮からの使節が国書を携えて訪日する場合、相島に待機し、公儀将軍からの返書を待つ規定になっており、このために福岡藩は使節毎に相島に客用の館を新築して壮大な接待をしていたので、藩を初め公儀の財政に大きな負担となっていた。
 五代綱吉の世に野放しにされていたこの件の負担を少しでも簡略化せんが為に、昨年新井白石より新しい案が上奏されていたが、今回はこの方策が実行されているか否か、の巡見であった。」
 福岡藩での調査を無事に終えた一行は、佐賀藩の平戸を経て4月26日唐津藩から壱岐、対馬へ向かうべく呼子へ到着した。しかし天候が悪く足止めされ、壱岐の南端、郷の浦へ向かったのは5月7日であった。下船後、北上して翌日海岸に出て北端の町、風下(勝本)に着いた。そこには対馬藩よりつかわされた案内役の三浦貞右衛門が迎えに来ていた。
 先日福岡藩で朝鮮通信使の取り扱いについて聴取したが、対馬藩においても同様に新しい方策が実行されているか、否かの調査が予定されていた。
 ところがこれに対して対馬藩の対応はかなり違っていた。従来から行われていた朝鮮からの密貿易は、長年の間日常化していたとみえ、突然の将軍交代による巡見使の調査は寝耳に水だったと思われる。したがって、急遽関係書類を処理して表面上のつじつまを合わせる必要があった。
 前回の調査からはすでに30年近く経っており、その作業はかなり膨大なものであったと思われる。従って巡見使一行にあまり早く到着されては困る事情があり、三浦貞右衛門の派遣はその為の時間稼ぎの役割があったのである。案の定、三浦案内人の対応からは、その意図が明らかに読み取れるものであった。
 5月8日、晴天。三浦貞右衛門はまず首席上使の小田切靫負(ゆげい)の宿に参上し、御用人菊地徳左衛門と対馬へ渡ってからの道順や宿のことで種々打ち合わせをしているが、3日経っても埒があかず、この展開に焦れた岩波御用人が直接厳しく詮議しており、その様子を詳しく次回紹介したい。