自由時間 (92)       なかにし礼逝く        山﨑赤秋

♪ 時には娼婦のように淫らな女になりな
♪ あなたと逢ったその日から恋の奴隷になりました
♪ あなたの過去など知りたくないの
♪ 今日でお別れねもう逢えない
♪ 雨がやんだらお別れなのね
♪ 北の酒場通りには長い髪の女が似合う
♪ 夜と朝のあいだにひとりの私
♪ 恋の終わりは涙じゃないの
♪ 好きなのにあの人はいない話し相手は涙だけなの
♪ 海猫(ゴメ)が鳴くからニシンが来ると
♪ 顏も見たくないほどあなたに嫌われるなんて
♪ 死んでもあなたと暮らしていたいと
♪ 別れの朝ふたりはさめた紅茶のみほし
♪ 私バカよねおバカさんよね
♪ 追いかけて追いかけてすがりつきたいの
♪ ハレルヤ花が散ってもハレルヤ風のせいじゃない
 これらは往年のヒット曲の歌い出しを並べたものだ。すぐにメロディを口遊むことができる。これらすべて、なかにし礼が作詞したものだ。生涯に作詞したのは、訳詞を含めて4000曲にのぼるという。そのほかに小説を書いて直木賞を受賞したり、ミュージカルやオペラを手掛けたり、TVやラジオのパーソナリティやキャスターを務めるなど才能にあふれた人だった。
 なかにし礼(本名・中西禮三)は、1938年(昭和13)満州・牡丹江に生まれた。父親は酒造業を営み成功していた。家族は、父母と姉・兄の一家5人。
 小学校1年生の時に終戦を迎える。8月8日、ソ連軍が満州に侵攻してきたとき、その防衛にあたるべき関東軍(この関東は、万里の長城の東端とされた山海関の東側の意味、日本の関東地方とは関係ない)は居留している日本人には目もくれず真っ先に逃げ出した。一般人は自ら避難するしかなかった。皆で協力してハルビンに造った収容所に彼の一家は落ち着く。それからしばらくして、ポツダム宣言受諾にあたり、外務省は在外公館あて「居留民はできる限り現地に定着せしめる方針をとる」という訓電を流した。つまり、日本に帰ってこないで現地で生き延びる算段をしてくれ、というわけだ。「五族協和」「王道楽土」を旗印に多くの日本人の渡満を奨励していた国が、敗戦したとなると、国民を見捨ててしまったのだ。その12月、強制労働から帰った父親病死(47)。
 満州には105万人の日本人(朝鮮人を含む)が取り残された。ソ連は送還に無関心で、引き揚げが始まるのは1946年3月にソ連軍が撤退してからのことである。それも、日本政府独自の業務としてではなく占領政策の一環としてGHQの管理下に行われることになった。残された居留民にしてみれば、日本政府は何もしてくれないのかと思ったにちがいない。同年5月から引き揚げ事業が始まり、8歳の中西禮三少年がまだ見ぬ日本の土を踏んだのは10月のことであった。
 戦争のもたらした地獄を見た1年2月、6歳の少年には過酷すぎる経験だった。
 しかし、もっと過酷な経験が待っていた。
 なかにし礼は立教大学文学部在学中からシャンソンの訳詞、歌謡曲の作詞をはじめ、29歳にして日本レコード大賞作詞賞を受賞し、売れっ子作詞家となる。
 そこに現れたのは15歳年上の兄であった。特攻隊の生き残りで、戦争体験により人が変わったのか、博奕と女におぼれ、事業に失敗しては借金を繰り返す横暴で破滅的な兄になっていた。ニシン漁への投機やゴルフ場開発に失敗し、莫大な借金を背負い、それを弟に肩代わりさせた。「兄が死んだ。姉から電話でそのことを知らされた時、私は思わず小さな声で『万歳!』と叫んだ。」というのは小説『兄弟』の書き出しである。どれだけ兄に苦しめられたのだろうか。
 華やかな芸能界に身を置き、順風満帆であるかのように見えていた彼にこのような壮絶な人生が隠されていたとは。
 2020年12月23日、なかにし礼は若いころからの持病だった心臓病の悪化により入院先の病院で死去した。体内に除細動器とペースメーカーを埋め込んで用心をしていたのだが。82歳だった。安らかにお眠りください!
 反戦・反核・護憲の立場から積極的に発言していた彼は、2014年7月1日に集団的自衛権が閣議決定されるや怒りを込め、若者に向けて『平和の申し子たちへ! 泣きながら抵抗を始めよう』という詩を発表した。その一部を次に記す。
愛する平和の申し子たちよ
この世に生まれ出た時
君は命の歓喜の産声をあげた
君の命よりも大切なものはない
生き抜かなければならない
死んではならない
が 殺してもいけない
だから今こそ!
もっともか弱きものとして
産声をあげる赤児のように
泣きながら抵抗を始めよう
泣きながら抵抗をしつづけるのだ
泣くことを一生やめてはならない
平和のために!