韓の俳諧 (1)                           文学博士 本郷民男
─ 千代女の献上俳句(上) ─

 お隣の韓国とは、長い文化の交流があります。千代女が朝鮮通信使へ俳句を献上した事例をまず取り上げます。江戸時代だけでも12回の朝鮮通信使の来朝がありました。第11回の1764年の通信使に対しての献上です。十代将軍家治の就任祝いのこの通信使は480名で、案内役の対馬藩500名を初め、諸藩が動員されました。百万石の加賀藩では、通信使への献上品として千代女に俳句の献上を命じました。
 千代女がどんな人かおさらいしましょう。伝説に事欠かない人ですが、確かな資料が乏しい研究者泣かせの人です。まとまった伝記は山東京伝『近世奇跡考』の「加賀千代尼伝」(国会図書館デジタルコレクション82~84コマ)だけで、1775年に74歳で没から逆算すると1702年生まれです。
 ところが、1719年に支考が千代女に会った時のことを珍事と題して大豪に送った手紙(額装され現存。和田文次郎『郷史談叢』に翻刻)に、松任の表具屋の娘で千代という17歳の美女がいるとあるので、1703年に生まれて1775年に73歳で没したとするのが定説です。
 支考はその手紙で、千代女が去年の暮れから発句を始めたばかりなのに、最初から不思議な名人で、稲妻と杜若の二題を与えたら、次の句を詠んだと絶賛しています。
行く春の尾や其のまゝにかきつばた
稲妻の裾をぬらすや水の上
 何とこの時の稲妻の句が、通信使への献上句に入っています。支考は芭蕉十哲に数えられ、芭蕉を開祖、支考を二代とする美濃派を作りました。支考は『俳諧十論』などの論書を著して俳諧を体系化した理論家で、初心者への指導法を確立した優れた指導者でした。
 『近世奇跡考』には、千代女が18で結婚したが、夫がすぐ死んで実家へ戻ったとあり、婚姻説を取る人が多いです。しかし、大河寥々(『加能俳諧史』302頁)や川島つゆ(明治書院版『俳句講座三俳人評伝下』213頁)は非婚説です。『近世奇跡考』は、江戸の流行作家が書いたものです。それに対して、千代女と交流のあった人の書いた文に、非婚としか読めない記述があります。川島つゆは、千代女の最初の俳諧の師であった大睡和尚の存在を指摘しました。大睡は千代女より19歳年上で終生千代女と俳句の交流があり、千代女と同じ1775年に没しました。あとは、悲恋小説に書いて下さい。
 千代女は現在の白山市、当時の松任の表具屋福増屋の娘として生まれました。1748年に市内の金剣宮へ奉納された俳額に千代女の句があり、裏には「松任表具屋千代」とあるので、表具屋の主人であったことが確かめられます(『鶴来の文化財』21頁)。
 支考の死後に千代女は伊勢派の麦林舎乙由に師事しました。支考の弟子だった乙由が伊勢派を起こしたと考えられています。支考と乙由等を「支麦の徒」や田舎蕉門と呼んでとかく軽蔑されました。