韓の俳諧 (18)                           文学博士 本郷民男
─ 日清戦争と俳句 ─

 日清戦争は戦争の原因と戦場の半分が韓半島です。さいたま市の指扇氷川神社に、「従軍賀章」という題の明治26年(1893)の俳額があります(諸橋一久「神社奉納額に見る指扇の俳諧」『大宮の郷土史』29)。
 千代に名の残る香や松の花 風月
 見送るや出で行く友の霞むまで 新月
 海越えた疲れを見せぬ燕かな 梅山
 充分の朝日抱へて冬の梅 東空
 文雅なる軍よ梅の花箙(えびら) 抱村
 明治27,28年の日清戦争の前の明治25年から、韓半島へ大軍を送っていたことを示す俳句の記録です。日清戦争を題材とする俳句は、『俳諧山吹叢誌』に多数あり、福留賢は307句だと集計しました(「日清戦争俳句研究─『俳諧山吹叢誌』を中心に─」)。なるほど「国の光」として戦争俳句が掲載されましたが、大部分が戦争を体験していない机上の俳句です。ただ、同誌30号(明治28年9月)に東京の父母庵雪山が「國廼光」として投稿したのは、本物です。
平壌  短夜の餘所から明けて銃の音
大同江 真黒な汗流しけり大同江
裸山  若葉する木もなし高麗の山続き
鴨緑江 鵲の橋は越せぬか二つ星
野営  月落ちて虎の声聞く夜寒かな
 作者は本名が大供太郎の陸軍少佐で、明治27年7月25日に出発し、28年8月4日に船に乗って帰国しました。まず釜山へ上陸し、韓の東学軍や清国軍と交戦しながら北上したはずです。9月15日の平壌を守る清国軍と攻める日本軍の戦闘が、日清戦争の山場でした。大同江は平壌の大河で、黒い汗どころか赤い血が流れました。裸山は、はげ山のことで、近世の韓半島には禿山が多かったのです。中国との国境が鴨緑江で、そこを越えたのは10月に入ってからでしょう。
 正岡子規は明治28年に従軍記者として大連へ向かいました。ところが、4月15日に金州、19日には旅順へ上陸した(『従軍紀事』)ものの、4月17日の下関条約で戦争が終わっていました。戦線をみることができないばかりか、病気が悪化して死線をさまよったまぬけな従軍でした。
 しかし、松山市立子規記念博物館で開かれた平成29年度俳文学会で、竹田美喜館長が興味深い報告をされました(「愚陀仏庵から『ほととぎす』創刊へ─柳原極堂と海南新聞─」)。子規は漱石の愚陀仏庵で52日間の養生をしながら、松山松風会の俳人達に俳句の指導をしました。指導のテキストが後に『俳諧大要』として松山の「海南新聞」と東京の「日本」に連載されて、俳諧革新が開始されました。海南新聞編集主任の柳原極堂が、新聞社の印刷機や職員や新聞用紙を流用する職権乱用の限りを尽くし、『ほととぎす』を創刊しました。松山の松風会や海南新聞がなかったら、俳誌『ホトトギス』はなく、文豪漱石もいなかったでしょう。