韓の俳諧 (21)                           文学博士 本郷民男
─ 俳句結社の始まり(下) ─

 前回に続いて、『韓城新報』の句会の記事を見て行きます。明治29年6月24日に、第壹會の正風集の募集をしたあと、7月16日に、次のような記事が出ました。俳句には、送り仮名、濁点等の変更を行いました。

俳壇 正風會寄稿第壹會正風會夏季俳句合惣聲壹百有餘韻之内芳吟抜花貮拾有壹章上座逆列に備ふ
  早月末つかた
     盲考 豐秋園迂人
  ◎三傑
夕立や晴るれば同じ元の空  蜻蜒庵
知惠の增す程は短し兒の袷  艶子
禮儀にて育ちの知らるゝ扇哉  梅翁
  ◎十哲
此の花でこの葉の色や燕子花  千舎
風鈴の音も涼しき小窓かな  停濱
越して来し山の方にか郭公  千舎
今晴れし森の雫や夏の月  
来て見れば先に人あり岩清水  
先づ無事に手渡ししたり芥子の花      撫友
涼しさや橡より足の届く水  蜻州
涼しさや月の浅瀬を徒歩渉り  芦風
一隅は柳に結びて舟の蚊帳  花袖
笠敷きて浮世を餘所の晝寝哉  蜻蜒庵
            (未完)
 十哲三句中七が「山の方りか」となっていますが、「り」だと意味が通じません。「耳」の草書を「に」へ充てると、「り」のように見えます。活字を拾う時に間違えたのかと、「に」としました。前書きの「夏季俳句」は、募集要項の「夏季随意」に対応します。しかし、「俳句」ではなく、発句と書いた時代です。俳句の語は明治10年代から使用例があるものの、子規によって定着して来るのが、明治30年頃からです(松井利彦『近代俳論史』71~73頁)。韻が組とすれば、投句が1000句以上あり、21句が入撰しました。
 「上座逆列」は、入賞者を普通と逆に書いたということです。一位が最後になるように配列することが多いので、その逆に一位から下位へ並べました。前回見た広告によれば、秀逸、巻軸、五客、十哲となるはずが違います。三傑が特撰、十哲が入賞というところです。三傑なら、「天・地・人」でしょう。約束した特典はどうなることやら。
 「早月末つかた」は、五月末頃という意味です。7月10日が旧暦の5月30日なので、審査が終わって7月16日の新聞に載りました。「盲考」と「迂人」は、撰者の謙遜で、撰者は広告のように豐秋園瑞穂です。残念ながら、どんな俳人なのかわかりません。投句者は、よけいに不明です。たとえば梅翁というと西山宗因の別号ですが、宗因のはずがないです。
 本稿は、「『韓城新報』に見る旧韓末期日本人居留民の生活」を書かれ、画像データまで提供して下さった小澤康則先生のおかげです。末尾ながら、御礼を申し上げます。