韓の俳諧 (25)                           文学博士 本郷民男
─ 仁川新聲會のこと ─

 韓半島の俳句研究の先駆者である阿部誠文氏が、半島で最も早い俳句会は明治32年に仁川(インチョン)の旧派の榛々吟社、新派では仁川新声会であるとされました(『朝鮮俳壇―人と作品』上巻7頁)。その根拠は『ホトトギス』明治32年(1899)9月号の地方俳句界末尾の記事です。
 ●仁川新聲會(朝鮮仁川)
 拝啓、當地に於ては從来俳句盛んに行れ、舊派俳人の組織せる榛々吟社は會員の頭數よりいへばなかなか盛大なるものに御座候。然る所今度小生等舊派俳句に慊たらざるもの相謀り、新聲會てふ會合の下に大に新派を興起致度存念にて先月第一回俳會を開き申候。
 舊派の老耄は之を聞て大に警戒を加へ候模様に候へども舊派多數の青年は一般に新派を迎合するの傾向あり遠からず彼等を凌駕致し候ことゝ我ながら頼母しく覚え居り候。今後一に諸先生の援助を仰ぎ度本會一同の希望に御座候。(朝鮮仁川士井聰一)
夏の月浅瀬を渡る聲すなり 鷗盟
涼しさに一里過ぎたる宿りかな 奇山
蓬蒿の寄り伏す中や百合の花 二俵
細道の巌に盡きて清水あり 喜晴
筍の伸びて庇を衝かんとす 白水
短夜を通し汽車にて戻りけり 槐堂
足弱の足冷し行く清水かな 香雪
 『ホトトギス』は明治31年10月に東京に移ってから次第に大きな雑誌になり、地方俳句界の欄ができて、ついに外国からの報告が載るようになりました。仁川空港でお馴染みのように、仁川はソウルの西に隣接していて、港に日本人の居留地がありました。当時、新聲會という俳句団体が林立したので、仁川を付けて区別しました。
 『ホトトギス』33年1月号には、「12月10日の夕方に鷗盟軒に会して談笑し、時の移るのを忘れ、三更に解散した」といった句会報が載っています。鷗盟の家を会場とし、毎月一回、夜の12時までも句会を楽しんだようです。同2月号には、仁川新聲會第七回として、五人の句が載っています。
 ところが、33年4月号には、「南風會(朝鮮仁川)」として、鷗盟の惜別句会報が載りました。仁川新聲會は発足して十箇月になるが、何等の進歩もなかった。京城の俳友と合併し京城で句会を開くことにし、会の名称も南風會と変更する。私は今日で帰国するので後は芙蓉氏に頼む、と哀調を帯びています。
 仁川新聲會の会員でかろうじて名前がわかるのが、鷗盟と芙蓉です。明治42年の『現代俳家人名辞書』に、「鷗盟 土井聰一 韓国仁川朝鮮新報社内」と「芙蓉 峰岸芙蓉 韓国京城大韓日報社」とあります。鷗盟は帰国後また仁川に戻りました。最初の句会報で士井聰一とあるのは、誤植とわかります。
 明治42年は併合の前年で、「大韓帝国」という国号だったので、韓国や大韓という表現になっています。鷗盟や芙蓉は新聞記者と思われ、彼等が関係した新聞に俳句が載っていたと思われます。しかし、新聞が残っていません。