韓の俳諧 (59)                           文学博士 本郷民男
─ 臼田亞浪の進出③ ─

 雑誌『朝鮮公論』の俳壇の選者を1925年(大正14)7月号から亞浪が務め、次は10月号に載りました。7・8月に亞浪が出雲へ長い旅に出ていたためです。
 公論俳壇  臼田亞浪氏選
塀ぞひに蝶のゆくなり日の盛り 阿部晩成
水鶏鳴く夜明けの風の凉しうて 小倉 新
夜水番水鶏の聲に目覺めけり 大田道船
鳴く水鶏朧冷え深き宵の月 高橋初馬
通夜心冴え来つ水鶏鳴きにけり 根来龍亭
山の温泉の早き夜明けや鳴く水鶏
麥畑の麥のかげなる晝餉かな 早田夢水
凉しさや向うの窓に月がさす
水鶏鳴くやいちにち曇り疲れたり 相澤草水
水鶏去つて山うつす水の澄んでゐし
草の葉の砂かぶりゐる日の盛り
一つ灯は淋しきものよ鳴く水鶏 庄司鶴仙
月に光るちろちろ水や鳴く水鶏
祭り果てて里は水鶏に更くるのみ
 選後に
🔲小倉君の「水鶏鳴く」根来君の「通夜心」早田君の「麥畑」草水君の「水鶏去つて」「草の葉」鶴仙君の「一つ灯」等は皆それぞれに佳い所がある。ますます精進せられたい。
 石楠京城支社(運座於鶴仙居)
 三點句
山霧に只揺れてあり踊の灯 三木芮城
蜩や片枝枯れし寺の松
間引菜をまたげ通りし徑かな 檜尾簷溜子
蜩や谷間に水車廻はる音 和田靑波
 四點句
踊りつかれて冷たき石にかけにけり 薛荔
踊衣裳灯にかざし見て抱きにけり 奈須逸世
 6月号に前選者の吉澤帝史が8月号の課題を「日盛」「水鶏」として募集したのが、10月号に載りました。選んだ句はもっと多くて、選評も他にあれこれと書かれています。臼田亞浪は新聞記者でしたから、文章には慣れていて、選句だけでなく各種の文章を載せました。旅のために二ヶ月も遅れたものの、出雲の旅が亞浪俳句の確立に一つの画期であったという説(加藤哲也『臼田亞浪の光彩』119頁以下)もあります。
 10月号で注目すべきは、京城に石楠の支部ができて、句会報が載ったことです。一點句から書かれていますが、数が多いので三點句と四點句だけにしました。京城に移住したばかりの庄司鶴仙の家に、10人ほどが集まったようです。句会報には俳号しかないですが、姓を補いました。薛荔だけは俳号しかわかりません。
 檜尾簷溜子(樹一)は、ある程度の経歴がわかります。1895年に岡山県に生まれ、たぶん親に連れられて韓国に渡りました。1914年に京城善隣商業学校を卒業し、岡山県で2年間小学校の教員をしました。その後は韓国で銀行員として、各地で勤務しました。1910年に韓国が併合され、日本式の学校が設立されました。韓国内の学校を卒業した俳人も出て来た時代でした。