韓の俳諧 (62)                           文学博士 本郷民男
─ 亞浪の第一回旅行① ─

 臼田亞浪は1928年と1935年に、満鮮旅行として、中国東北部と韓半島への旅をしました。京城には福永巨明・西村公鳳・庄司鶴仙と三人の「石楠」同人がいたので、彼等が道案内や宿・句会の手配をしてくれました。彼等が記録を残してくれたので、亞浪の足取りがわかります。
 第1回は5月2日の夜に出発しました。当時は特別急行1列車と2列車が、東京と下関を1日がかりで結んでいました。亞浪はたぶん午後8時半頃に出発の2列車の1等寝台を利用しました。西村公鳳が前日に東京へ泊まって、京城まで案内してくれました。東京駅では信州から駆け付けた父親を初めとする亞浪の一族や数十名の「石楠」の人々に見送られました。
 亞浪は軽装で、乗車するなり一杯やろうと公鳳を食堂車へ誘いました。しかし、事情を知っている公鳳は、せめて横浜を過ぎてからと、待ってもらいました。
 横浜では、「石楠」横浜支部の人々が見送りに来ていたからです。横浜を過ぎてから食堂車に行ってすっかり出来上がった亞浪は、「おれは寝るぞ」と寝台に潜ってしまいました。しかし、夜の12時着の静岡でも一人待っているのを知っている公鳳は、眠いのを我慢して待ち人を接待してから眠りに着きました。「今夜は零度以下に温度が下降するそうだよ」と亞浪が語ったように、十三夜の月が冴え返っていましたが、さすがは1等寝台で、スチーム暖房が効いていました。
 翌3日も列車は走り続け、長い日もとっぷり暮れてから、下関に着きました。
5月3日 小郡にて 臼田亞浪
夕月やおもひはるけき穂麥原
 下関では大分の藤本佛太と門司の山中茂樹が待っていました。さらには亞浪が電報で呼び出した兼崎地橙孫も来ました。互いに顔を知らないので、駅の出口で名乗り合いました。この日は下関の年に一度の祭(しものせき海峡まつり)で、大変混雑していました。五人で山陽ホテルのグリルに入り、カクテルを楽しみました。そうして、三人の見送りを受けて、関釜連絡船に乗船しました。今は出国の手続きが必要ですが、当時は国内旅行でした。
 船は満員で寝台がおおかた塞がっていたのを、公鳳が二つだけ確保しました。寝台ということは、1等船室でしょう。出帆は11時でした。下関と釜山の距離は240キロあり、翌朝8時に釜山へ上陸しました。
5月4日 釜山にて二句 臼田亞浪
われも旅人擔軍(ちげ)の子すがる麗けし
朝霞ポプラは青き山の空
 チゲは担ぐ物という意味の背負子です。チゲを使って荷を運ぶ人をチゲクンと言います。擔軍は擔ぐとクンの読みにあてた軍を合成した和製韓語です。子供のチゲクンに、運ばせてと懇願されました。「旅人と我名呼ばれん初しぐれ」の芭蕉に思いをはせ、望みに満ちた朝空を仰ぎました。