鑑賞「現代の俳句」 (29) 沖山志朴
降り止まぬアンネの薔薇の涙雨小路智壽子〔ひいらぎ〕
[俳句四季 2023年 6月号より]
今日でも、世界中の多くの人たちに読み継がれる『アンネの日記』。筆者は、かつてアムステルダムのアンネ達の隠れ家を訪れたことがある。本棚のドアを開けて、アンネ達八人が長いこと暮らした薄暗い部屋へ。残された品々を見たときのやるせない気持ちは、20数年経った今でも忘れることができない。
アンネは、花の中でもとりわけ薔薇が好きだったという。「アンネの薔薇」を作りだしたのは、ベルギーの育種家ヒッポリテ。多くの薔薇の品種を作りだしたが、その中でもとりわけ美しい薔薇を選んで命名したとのこと。様々な経緯を経て日本に定着した。この涙雨は、理不尽な死を遂げたアンネへの追悼の涙であり、ホロコーストへの憤怒であり、そして、平和を願ってやまない世界中の人たちの涙の雨でもある。
花筏濠の水面に余白なし上野一孝〔梓〕
[俳句 2023年 6月号より]
下五に「なし」という否定の形容詞を用いることで、情景をより印象付ける効果が生まれた。いかに多くの花弁が散り敷いたかを読者は瞬時にして理解する。
千鳥ヶ淵の落花の頃の情景がまさに、この景である。城垣の整然と並ぶ石組、その下の濠の水面全体の花弁の淡い紅。色彩のコントラストが見事で、まるで一幅の絵を見ているようである。しかし、この景色は、筏というよりも、もはや花弁の千畳敷といった方がよいのかもしれない。それほど強烈な印象の残る句。
後悔の色と思へり濃紫陽花石倉夏生〔地祷圏〕
[俳句界 2023年 6月号より]
細見綾子の句によく知られた〈チューリップ喜びだけを持つてゐる〉がある。この明るい句に対して、掲句は、濃紫陽花の色を後悔の心の色と喩える。ちなみに紫陽花の花言葉は、浮気、無常などとどれも暗いイメージばかり。
コロナ禍や戦争、温暖化など、今日の社会の状況は、決して好ましいものではない。人生は、後悔の連続であるということがよく言われるが、そんな状況の中で揺れ動く人の内面世界を、濃紫陽花の色を通して、象徴的に詠っているのが見事である。
トロ箱を抜け出す蛸の力瘤神田ししとう〔六曜〕
[俳句界 2023年 6月号より]
蛸は、日本ではいろいろな料理に重宝されるたいへん人気のある食材であり、消費量も世界一。しかし、外国では、悪魔の魚として嫌われ、食べる習慣のない国も少なくないとのこと。
蛸は、生命力の強い生き物である。掲句の眼目は、軟体動物である蛸の力瘤に焦点を当てたところ。力瘤は、この蛸の生命力の強さとして表現されている。蛸にしてみれば生きるために必死なのであるが、どことなくユーモラスに描かれていて成功している。
神官の靴先に泥山開き岸村元吉〔朴の花〕
[俳壇 2023年 6月号より]
今日、山開きといえば、その年に初めて登山者に登山を許可し、その安全を祈願する儀式でもある。しかし、古代の日本では、山伏や修験者しか立ち入れない神聖な山に、人々の入山を許していただくための山岳信仰の神事の一つであった。
登山者で賑わう広場、お祓いをする神官の足下を見ると、その浅沓の先に泥がついている。未だぬかるんでいる悪路を駆けつけてきたのであろう。今年もどうか事故がなく、人々が山の魅力を存分に楽しむことができるように、と願ってやまない作者である。
水中の脚のゆらめき遠郭公近藤みちる〔春野〕
[俳壇 2023年 6月号より]
四つの名詞と二つの助詞との組み合わせの句である。句材は、揺れる足の影と、郭公の声という視覚と聴覚の取り合わせ。そして、近距離と遠距離の配置など、偶然であろうが、緻密に構成されている句である。
「水中」とは足湯であろう。高原の駅で、電車を待つひとときの光景と推測される。水の動きや光の加減で揺れる足の影。遠くの林から途切れ途切れに聞こえてくる郭公の澄んだ声。何とも心地よい。このまま時が流れずにいてくれればと願いたくなるような心境であろう。
孑孒の振付け変へてみたくなる 渕野陽鳥〔花鶏〕
[俳人協会 令和5年俳句カレンダーより]
孑孒は、別名を棒振虫ともいう。細長い棒のような体を曲げたり伸ばしたりしながら泳ぐ様子から名付けられた。融通の利かない単純な動きの繰り返しにやや辟易し、振付けを教えてやりたくなったと詠う。
作者の主情がかなりはっきり示された句である。類想をみない、俳諧味あふれるユニークな句にまとまった。作句の際の視点を考えるうえで大いに学ぶものがある句である。
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