古典に学ぶ (61) 『枕草子』のおもしろさを読む(16)
   ─ 夏の色、そして「心ざし」の色②─      
                            実川恵子

 この赤い薄様の手紙の内容は、どんなものであったのか、気になるところである。恋文か、暑中見舞いの挨拶文であったかもしれない。
 美しく咲いた唐撫子を結びつけた手紙から、大切に思う相手への心が読みこまれていたとも思われる。
 この「撫子」は、夏から秋にかけて咲き、その花期の長さから、「常夏」の異名がついたとも言われる。美しい可憐な花が愛でられたばかりでなく、「撫(な)でし子(娘)」(撫でて慈しむ子や愛しい女性)の意に通じるので、『万葉集』の大伴家持らの和歌をはじめとして、平安時代の和歌にも数多く詠まれている。
 清少納言は、この撫子の花を好んだらしい。「草の花」(第65段)では、「草の花は、なでしこ、唐のはさらなり、大和のもいとめでたし」と、撫子をあげるが、和歌によく詠まれる大和撫子よりも唐撫子の方を第一番にあげ、「さらなり」(言うまでもない)と評価する。いかにも唐風好みの清少納言らしいし、和歌的情趣を少しはずしてみせるという独特の手法が見える。それはともかく、真夏の手紙に撫子が選ばれたのは、単に季節の花という以上に、手紙の送り主が清少納言の好みをよく知っていることを窺わせる。撫子のなかでも赤の色味の強い唐撫子と濃い赤色の薄様とは、清少納言への真夏の手紙として、選びに選んだ組み合せであったと思わせる。
 ところで、この章段は赤い薄様の手紙の印象が強いため、その配色ばかりに目が行きがちだが、清少納言の批評の眼目は、別のところにもあるように思われる。何よりも、清少納言はこの手紙を「暑苦しいもの」として受け取ったわけではない。「こんな暑苦しい時期に手紙をわざわざ書いてくれた」というのでなく、「こんなすてきな手紙を暑い盛りにわざわざ書いてくれた」というのであろう。「書きつらんほどの暑さ、心ざしのほど浅からずおしはかられて」という言葉を注意深く受け止めれば、撫子と手紙の趣向の巧みさは言うまでもなく、この酷暑の昼日中に、わざわざ自分のために硯に向かって文をしたためてくれた手紙の送り主の「心ざしのほど」に思いを託し、感激したのである。赤色が「暑苦しい」色というわけではなく、なにもしたくないような暑い夏の昼中に、わざわざ手紙を書いてくれたという行為と心ざしへの感動であったのである。この手紙のためにどれほど暑い思いをしたか、どれほど自分のことを思ってくれているか、それがこの一通の手紙に込められ、託された相手の厚い心がしのばれたのである。昼日中を過ごして幾分涼しくなった時分に手紙をよこしてもよかろうものを、暑さを厭わずに書き綴り、手折った唐撫子に付けて届けてくれた、という行為そのものに深い意味がある。赤い薄様の手紙に清少納言が感激し、扇を思わず置いて、手紙を取らずにはいられなかったのは、何よりもそうした行為から推し量られる送り主の真心を受け取ったからに他ならない。
 さらに連想すれば、そうした心尽くしが清少納言に正しく伝わるであろうことを、手紙の送り主は信じていて、わざわざ酷暑の昼日中に届けてよこしたのではなかろうか。送り主の清少納言への信頼感、そしてそれに応え得る清少納言であること、そのような二人の関係性こそ、他ならぬ清少納言が表明したかったことなのではなかったか。