子規の四季  69 子規の愛した鮓  

                        池内 けい吾

われ愛すわが豫州松山の鮓子規

われに法あり君をもてなすもぶり鮓

松山地方の郷土料理である松山鮓(もぶり鮓)を詠んだ、 子規のふるさと賛歌ともいうべき句である。松山鮓といえば、高浜虚子が大正6年から「ホトトギス」 に連載した『漱石氏と私』の第1回に、こんな一節がある。

私が漱石氏に就いての一番旧い記憶はその大学の帽子 を被つてゐる姿である。時は明治二十四五年の頃で、場 所は松山の中の川に沿うた古い家の一室である。それは 或る年の春休みか夏休みかに子規居士が帰省してゐた時 のことで、その席上には和服姿の居士と大学の制服の膝 をキチンと折つて坐つた若い人と、居士の母堂と私とが あつた。母堂の手によつて、松山鮓とよばれてゐるとこ ろの五目鮓が拵へられて其大学生と居士と私との三人は それを食ひつつあつた。他の二人の目から見たら其頃ま だ中学生であつた私はほんの子供であつたらう。(中略) 淑石氏は洋服の膝を正しく折つて静座して、松山鮓の皿 を取上げて一粒もこぼさぬ様に行儀正しくそれを食べる のであつた。さうして子規居士はと見ると、和服姿にあ ぐらをかいてぞんざいな様子で箸をとるのであった。

明治25年8月、岡山への旅の帰路にはじめて松山を訪 れた漱石が、中の川沿いにあった正岡家で母手作りの松山鮓をもてなされている場面である。同席した虚子には、よほど 印象深い漱石との初対面だったのだろう。明治44年から 「ホトトギス」に発表した『子規居士と余』にも、同じ場面 が描かれている。松山鮓とは焼いた穴子の骨やほぐした白身魚などを浸した 鮓酢で作った鮓飯の上に、酢でしめた魚介類(鯛、焼穴子、 蛸など)や季節の野菜(蓮根、椎茸、きぬさやなど)と錦糸 卵などを見た目にも美しく飾ったもの。方言では「もぶり 鮓」「おもぶり」とも呼ばれる郷土料理である。祭や祝い事 などの日に、主婦が腕をふるう家庭の味でもあった。

子規の母・八重自慢の松山鮓は、江戸っ子の淑石にも大い に気に入られたらしい。松山鮓が大好きな子規の、得意げな 顔が目に見えるようだ。

冒頭に掲げた子規の句は明治29年の作で、『寒山落 木』巻5の夏の部に収められた鮓の句全18句のなかの2句。 その他のも左記のような句がある。

鮓の圧取れば小笹に風渡る
早鮓や東海の魚背戸の蓼
鮒鮓や瀬田の夕照三井の鐘
よせ席の鮓古くさき匂ひ哉
きぬぎぬのはなれがたさや鮓の圧
山北や鮎の鮓買ふ汽車の中
筍や鮓の五月となりにけり
うつくしきものふりかけぬちらし鮓

ここには、鮓飯にしめた魚をつけて押しをかける「早 はやずし 鮓」 (一夜鮓)、近江の鮒鮓に代表される「馴 なれずし 鮓」、大阪鮓とも小 われる「押 おしずし 鮓」など、各地のさまざまな鮓が詠まれている。 「山北や」は、駅弁として売られていた興津の鮎鮓であろう。 「筍や」はふるさとの笥鮓、「うつくしきもの」は松山鮓を描写したものと思われる。

大好きな郷里の鮓だけでなく、折あるごとに諸国の鮓を味 わっていたのだろう。子規は俳句と鮓についても一家言ある らしく、明治34年の『墨汁一滴』の最後に、こんなこと を書き残している。

鮓の俳句をつくる人には訳も知らずに「鮓桶」「鮓圧 お す」などいふ人多し。昔の鮓は鮎鮓などなりしならん。 それは鮎を飯の中に入れ鮓をかけたるを桶の中に入れて おもしを置く。斯くて1日2日長きは7日も其余も経て 始めて食ふべくなる、之を「なる」といふ。今でも処に よりて此風残りたり。鮒鮓も同じ事なるべし。余の郷里 にて小鯛、鯵、鰡など海魚を用ゐるは海国の故なり、こ れらは一夜圧して置けばなるゝにより一夜鮓ともいふべ くや。東海道を行く人は山北にて鮎の鮓売るを知りたら ん、これらこそ夏の季に属すべき者なれ。今の普通の握 り鮓ちらし鮓などはまことは雑なるべし。

この文を書いたのは7月2日のこと。同じ日に、鮓の句を 3句残している。

鮒鮓や考槃亭をかりの宿
名物や古風な鮓の今に猶
鮓つけて同郷人を集めけり

右の「鮓つけて」の句からは、子規が母の作った松山鮓を 周郷の門人たちにふるまっている姿が想像される。

子規最晩年の生活記録である『仰臥浸録』には、3度の食 事内容が細かく記されている。鮓大好きの子規の食卓には、 母手作りの松山鮓がたびたび登場するかと思いきや、松山鮓 の出番はまったくない。記されているのは伊藤左千夫らの門 人が携えて来た与平鮓(本所にあった握り鮓の元祖といわれ る鮓店)や鰯のなれ鮓、近所で求めたらしい稲荷鮓だけだ。

おいそれと松山鮓が作れなかったのは、当時の食品流通事 情が大きく関わっていたと思われる。子規の食卓には、ほぼ 連日のように刺身が登場する。東京でも鮮魚は入手できたの だが、記されている刺身は鮪と鰹が多く、鯛の刺身はゼロで ある。つまり松山鮓に欠かせない新鮮な鯛は、当時の東京の 一般家庭ではなかなか入手できなかったのだろう。そういえ ば、子規にはこんな句もある。

沖膾都の鯛のくさり時

『仰臥漫録』は公表を前提としない私的な記録として書か れたもので、後半には子規が病床で筆をとったスケッチ画や 短歌、俳句も大量に記録されている。明治35年の俳句の なかに、こんな前書きのついた2句が見える。

陸前石巻より大鯛三枚氷につめて贈りこしければ
三尺の鯛生きてあり夏氷
三尺の鯛や蠅飛ぶ台所

明治35年(1902)6月9日付で松山の大原恒徳叔 父に宛てた書簡は、時候の挨拶や叔母の病気見舞のあと自身 の病状に触れ、さらにこう続けている。

〈此三四日前より始めて人心地相つき私もはたの者も稍心の どかに相成申候   今日は陸前石の巻より三尺程の大鯛三枚氷 づめにて送りくれ候ニ付珍らしく松山鮓をつけんとて朝より さわぎ候程の事ニ御座候   五月中は容体よろしからず   私も 今年の五月は最早得きこえまじくと存あきらめ居候処又々少 康を得申候   其頃は内の者を病牀よりはなし不申   台所へ往 きて後仕舞をするさへ拒みてさせざりし程にて迚 とて も其頃は鮓 をつけるなど思ひもよらざりし事に候(後略)〉

石巻からの鯛の贈り主の名は不明だが、久々に松山鮓にあ りついた子規の嬉しさが伝わってくる書簡である。これが、子規が生涯に食した最後の松山鮓となった。

ほうの花