子規の四季(79)   郵便句会「十句集」         池内けい吾

 明治二十九年(1896)四月、子規を中心とした郵便による句会「十句集」が始まった。当時発見されたばかりの蕪村の『新花摘』にヒントを得て、子規が発案した句会と伝えられている。
 『新花摘』は大阪の水落露石によって発見されたもので、毎日八句から十句を書きつらねた日記体の句集。子規は〈蕪村句集新花摘を見る、句々珠玉、蕪村は人間以上の力を有せしかと疑はる〉と述べている。子規は、月並などと評されることを恐れず大量の句を発表続けた蕪村の勇気に、鉄槌で脳天を殴られたような衝撃を受けた。そして『新花摘』によって示された一題十句こそ句作最善の方法だと考えたようだ。従来は一題一句が句会の不文律のようになっていたのである。
 子規が記した「十句集」の参加資格者についての告知に、こんな条文がある。
 一、 東京市内居住ノ者、市外ト雖(いえども)遠カラザル処ハ特ニ許ス
 これは東京市内なら朝投函した郵便がその日の午後には届いた、当時の郵便事情を反映していると考えられる。郵便の熱烈な愛好者であった子規は、郵便という当時最先端のメディアを駆使して、句会を運営しようとしたのだろ。
 明治二十九年四月、第一回「十句集」の課題は「畑十句」で、幹事は碧梧桐であった。残念ながらその句稿は現存しないが、〈畑十句は一人一日として早くまはすやうにしたまへ 余り遅くなりては張合ぬけておもしろからず〉と、碧梧桐・虚子に宛てた四月十九日付けの子規の書簡が残っている。宛先は、しのばず弁天僧房での藤野古白追悼発句会気付で、同封の五十銭は会費と思われる。
 六月の第三回以降は、「○○十句」という題の一覧やほとんどの句稿が明治三十三年分まで記録として残っている。題は「桜」「団扇」「雲の峰」「菊」「霧」などの季語もあるが、「寺」「女」「心」「旅」「海」「門」
「老」といった一字の題が多く、「洋語」「貧富」「字余り」というような題の月もある。 
 参加者はまず幹事へ句を送る。その際、季語以外の題なら、提出の十句を季別に分類しなければならない。幹事から句集が届いたら出句者の人数分、つまり十人出句なら十句を選び、ベスト三句を天地人とする。句集は受け取ってから二十四時間以内に次へ転送し、選句は四十八時間以内に幹事へ送るのが決まりであった。句集の末尾には、翌月の題が告知されていた。
  
 郵便句会「十句集」発足から二年後の明治三十一年四月の題は、「遊廓十句」であった。参加者は子規のほかに渡辺香墨、竹村秋竹、佐藤肋骨、吉野左衛門、大谷繞石、石井露月ら計十六人。幹事は梅沢墨水、高点者は河東碧梧桐と記録にある。

 旅にして妓楼に遊ぶ浴衣哉 子規
  吉原のにわか過ぎたる夜寒かな

 上は子規作の高点句。浴衣の句は香墨の天、秋竹と繞石の人に、夜寒の句は碧梧桐の天に選ばれている。その他に子規には、下記のような作品が見える。

  春の夜の明けなんとする廓かな
  傾城の汐見してゐる二階かな
  吉原の火事映る田や鳴く蛙
 子規が初めて吉原に登楼したのは明治十七、八年頃で、親友の柳原極堂に強引に案内させたらしい。二人分の資金は子規のぼろ財布の中身だったというから、三流以下の安い妓楼だったのであろう。翌朝帰り道で極堂に漏らした感想は「吉原はまるでつまらん所だね、あれではつまらんつまらん」だったという。句にも、そうした子規の体験が反映されているようだ。
 最高点だった碧梧桐の作は、下記のような句だ。   廓の灯や蛙鳴く夜の小千住 碧梧桐
花に酒居つゞけの愚や二日酔
楼の雪禿(かむろ)に燭をとらせけり
  子規が三傑に選んだのは、以下の作である。

天  吉原の桜に耻ちし白髪かな 香墨
地  花に酔ふて遊女見に行く人数哉 露月
人  繞萍の身は数ならぬ遊女かな 東洋

 以下、その他の高点句。

雛抱いて禿罪なき酒宴かな 秋竹
夜桜や廓に意趣の伊達くらべ 左衛門
女郎部屋に牡丹明るき鏡かな 胡堂
いとしさに馴染をかさね春尽きぬ 碧玲瓏

 さらに二年後の明治三十三年四月の題は「芝居十句」であった。この回は三十二人という大人数が参加し、内藤鳴雪や松根東洋城の名も見える。以下は子規の句。

桜散り芝居鎖して幕の春 子規
春風や阿波へ渡りの旅役者
大阪の芝居くさすや涼み舟
昼顔やきのふ崩せし芝居小屋

 子規選の三傑は左記のとおり。

天  損打て去(い)ぬる芝居や初時雨 芹村
地  朧夜や芝居戻りの気の疲れ 雨秋
人  老い住ふ女役者や沈丁花 抱琴

 その他、以下のような句が見られる。

銭湯に芝居のびらや松の内 孤雁
夢の場や花道近く紙の蝶 東洋城
春雨や芝居もどりのもあひ傘 雨翠
芝居出て涼しき風に当りけり 牛伴
哀れなる殺しの幕や寒念仏 鳴雪

 郵便句会「十句集」は、子規が亡くなった明治三十五年まで続けられた。