曾良を尋ねて (109)           乾佐知子

  ー伊勢神宮参拝に関する一考察―

 9月10日は伊勢内宮遷宮式の日である。
前日大智院を出発した芭蕉達一行は、津から久居に向い、長禅寺(正しくは超善寺)に泊った。津から久居は伊賀越大和街道と合流する宿場である。久居藩は寛文十年(1670)に津藩から五万石を分与されて立藩したばかりの支藩で、伊賀からも多くの家中が移り住んでいたから芭蕉の知り合いも大勢いたと思われる。
 この久居藩の初代藩主の藤堂高通(1644〜97)は芭蕉とは縁が深く、芭蕉がはじめて江戸へ下ったときに同行してくれたのが久居藩士の向日八太夫で俳号を卜宅(ぼくたく)といった。高通自身も文人として名高く、北村季吟とも親交があり、任口という俳号をもつ。芭蕉の力強い後ろ盾であった。
 この年の遷宮式はこの藤堂高通が最高指揮官としての重責を担っていた。当然芭蕉もこのことを知っていて『奥の細道』の中でも「伊勢の遷宮おがまんと」と大垣出発のときに書いている。
 ところが当日の10日になっても出立する様子もなく一行が長禅寺を出たのは翌11日であった。以前拙稿でこの伊勢の遷宮にふれた時(芭蕉は遅れた為初日は参拝が叶わなかった)と書いたが、今回はその理由が判明したので改めて詳しく述べたい。
 金森敦子氏の著書『曾良旅日記』に依れば、
 貞享元年(1684)に芭蕉が伊勢を訪れて外宮を参拝したときに、「(中略)俗に似て髪なし。我僧にあらずといへども、髪なきものは浮屠(ふと)の属(やから)にたぐへて、神前に入事(いること)をゆるさず。(後略)」と『野ざらし紀行』にあり、芭蕉は神前に詣でることが出来ないことをすでに体験して、知っていたのである。
 伊勢の神は僧侶や尼など頭髪のない者を忌むので、五十鈴川から中へ入ることが出来なかった。つまり僧形の者は、宇治橋の手前から五十鈴川に沿って上流へいき、内宮正殿の真向いに作られた(僧尼拝所)から参拝することになっていた。この禁が解かれるのは明治5年だという。
 又僧形の者たちは普通なら神前に近づくことは出来ないが、御師(伊勢ではオンシという)に頼んで深夜に詣でるしかない為、急いで行っても意味がなかった、というのである。
 20年に一度の遷宮式だから参宮者は例年の数倍はいたことであろう。芭蕉は過去に伊勢には5度趣いた、とのことで有力な御師の知り合いも多かったと思われる。当時御師の数は外宮だけで四百四十家。これに内宮を加えれば六百から7百の御師がいたと推定されている。
 伊勢神宮の檀家(信者)は江戸後期には日本全体で七〜八割はあったというから驚きである。
 13日の午前中に内宮を参拝する。これは五十鈴川を間に、僧尼拝所からのものであったが、午後に一度宿に戻り夜中に神前へ行く準備をする。この場合は頭に〝付け髪〟をして行くのである。今でいう簡単な〝鬘〟のようなものであったと思われる。