曾良を尋ねて (116)           乾佐知子
─ 松尾芭蕉の臨終に関する一考察 ─

   閏5月16日伊賀上野を発った芭蕉は、6月7月と大津と京都・嵯峨野落柿舎を往復して、しきりに「かるみ」を説く。落柿舎滞在中の6月8日に江戸の猪兵衛より2日に寿貞が死亡した、との訃報が届く。芭蕉はすぐに猪兵衛宛に返信。断腸の思いを述べ没後の処置とまさ、おふうの後見を頼む。
    “寿貞無仕合もの、まさ・おふう同じく不仕合、とかく申し尽しがたく候。(中略)何事もなにごとも夢まぼろしの世界、一言理くつハ之なく候。ともかくもよき様に御はからひ成さるべく候。(後略)”
 6月15日京都を去り膳所(ぜぜ)へ移る。以後、7月5日までに義仲寺、無名庵を本拠として滞在する。10日には曾良宛にも「かるみ」をすすめ「続猿蓑」を秋中頃に出版するとの予定を告げている。
 7月中旬伊賀上野の実家に帰り、盆会を迎える。家はみな杖に白髪の墓参り
 尼寿貞身まかると聞きて
数ならぬ身とな思ひそ玉祭
 わびしく日陰の一生を送った女性に対する心からの同情がしんみり詠まれている。
 9月8日まで当地に滞在した後、翌9日奈良に移る。
ぴいと鳴く尻声悲し夜の鹿
菊の香や奈良には古き仏達
 大阪到着の後、9月23日兄半左衛門宛に健康を害したことを告げる。
 “(前略)十日の晚より、ふるひ付申、毎晩七つ時より夜五つまで、さむけ・熱・頭痛参候而、もしはおこり (マラリヤの一種)に成り申し可しかと薬給候へば、廿日比よりすきとやみ申候。云々。”
 亡くなる20日前のことである。この手紙から9月29日に下痢を催して臥床するまでの1週間のうちに3回句座をもうけ、ここに至りあくまでも作句に執着する姿をみせている。
此道を行く人なしに秋の暮
 「此道」とは人生のさびしい道、つまり自分の辿る俳諧の厳しい孤独な道のことを掛けたものといえる。
秋深し隣は何をする人ぞ
 隣り合っていても結局人間は一人一人なのである。(稲垣安伸著『松尾芭蕉』)
 29日、この夜から日を追って病状は悪化。
   病中吟

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
 5日に病床を花屋仁左衛門方の裏座敷に移した、とあるが定かではない。7日に去来、乙州、丈草等数人が駆けつける。後日其角も来る。
 10月10日夕方から高熱、容態はいよいよ悪化。夜に入り支考に遺言3通を代筆させる。そのうちの1通兄半左衛門には自分で書く。
  “御先に立ち候段、残念に思召さるべく候。如何様共(いかようとも)又右衛門便りに成され、御年寄られ、御心静かに御臨終成さるべく候。爰ここに至って申上ぐる事御座なく候。(後略)”
 後2通の遺言は猪兵衛※と杉風宛であった。
 そして元禄7年10月12日申の刻(午後4時頃)多くの門人達に看取られて芭蕉は51歳の生涯を終えた。
(※伊兵衛ともあり)