曾良を尋ねて (122) 乾佐知子
─芭蕉没後の曾良の動向 ─
元禄7年10月12日の夕暮れ、午後4時頃芭蕉臨終。遺体は「木曾塚(義仲寺)に送るべし。ここは東西の巷、さざなみ清き渚なれば、生前の契り深きところなり」(「芭蕉行状記」)の遺言通り、門人たちは遺体を船に乗せ、膳所の義仲寺へ向かった。
船上には、去来、乙州、丈草、惟然、正秀、木節、呑舟、支考、其角、次郎兵衛の10人が乗り、船は淀川をさかのぼった。
14日近江の義仲寺に葬られ、全国から多くの門人らが駆け参じたという。10月22日には江戸で追悼歌仙が巻かれ、桃隣、杉風、岱水、利牛、野坡、素竜らが集まった。
しかし曾良は何故かそのいずれにも行っていない。200日以上もの間みちのくへの旅で寝食を共にし、恐らく門人の中でも最も身近な存在であった筈の曾良が一体どうしたのだろうか。
曾良研究の第一人者であり、生前は俳誌「雪」の主宰をなさっていた村松友次氏(俳号紅花)の『謎の旅人曾良』によれば、曾良が芭蕉の葬儀に参加しなかった理由は、当時曾良は幕府筋の公務についており私用の自由がきかなかったのではあるまいか、と推測しておられる。その考えを裏付ける資料があった。
元禄7年10月26日付の山口素堂から曾良への書簡である。
御無事ニ御務被レ成候哉。其後便不承候。野子儀妻ニ離申而、当月ハ忌中ニ而引籠罷有候。
一、桃青大阪ニて死去の事、定而御聞
可レ被レ成候。御同前ニ残念ニ存事ニ
御座候。嵐雪・桃隣廿五日ニ上り申され候。尤ニ奉レ存候。(後略)
十月廿六日
曾良雅丈 素堂
冒頭の「御無事にお務めでございましょうか」という言葉から、素堂は曾良が何の仕事をしているか知っていたと思われる。それは「御務」であり、本人の意志とは関係なく強く管理されている務めのようだということである。(「其後便りも不レ承…」)とあることから曾良は江戸の俳人仲間とも疎遠になっていたことが想像される。
曾良は芭蕉が5ヶ月前の5月に次郎兵衛を伴って帰省の旅にのぼった時に、2人を送って小田原まで行き、幼い次郎兵衛に旅のあれこれを教えたという。また、『奥の細道』の途中で越後の村上では、曾良が長島藩に仕官していた頃の主君松平良尚の三男良兼(一燈公)の命日に合わせて御墓を拝む為に立寄っていた。
そのように義理堅く恩義には特に篤い曾良が芭蕉の葬儀に欠席するという事は、よほどの事情があったのだろうと推測されるが、それゆえにはたして単なる「御務」だけの理由であったのかどうか疑問が残るのだ。
これはあくまでも私の推測ではあるが、曾良はこの時「俳人曾良」ではなく、幕府筋の「神道家岩波庄右衛門正字(まさたか)」という身分で吉川惟足のもとで働いていたのではなかろうかと考えるが、いかがか。
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