曾良を尋ねて (129) 乾佐知子
─幕府巡見使の御用人として九州へ─
宝永6年(1709)1月15日に五代将軍綱吉が世を去り、継いだ六代将軍家宣は、先代の綱吉晩年の治世がいささか華美に傾いた世情を引き締めるため、幕制刷新を期して諸国を八方面に分け、巡見使を派遣した。
巡見使とは、江戸時代を通して計9回派遣されており、寛永10年(1633)を初めに、寛文7年(1667)、天和元年(1681)、宝永7年(1710)、亨保元年(1716)等、それ以後も4回ほど行使されており、全国の施政や民情等を視察する為のものであり、公儀にとっても重要な調査であった。
従ってこの随行員のメンバーに抜擢される人物は、幕府にとって絶大な信用のある者に限られることが必定であった。
当時曾良は本名の岩波庄右衛門正字(まさたか)と称し、本業の神職者として活動していたものと思われるが、相変らず六十六部という乞食に近い姿をして、全国の各地へ探索に奔走していた可能性もある。そのずば抜けた行動力と、地誌に明るく博識で、事務能力の卓越した才能は、幕府にとっても逸材であったことは間違いない。
春に我乞食やめてもつくし哉
という句を故郷諏訪への便りの中に入れてあったというが、この時すでに九州方面への巡見使としての下知があったことが判る。この句は上諏訪にある正願寺の曾良の墓にも辞世の句として記されている。
曾良には他にも巡見使出発の気持を歌った和歌がある。宝永7年庚寅の春に「正字」として
立初る霞の空にまつそおもふ
ことしは花にいそく旅路を
宝永6年の歳暮の句として
千貫もねさせてせはし年の暮曾良
この「千貫の…」の句について説明すると、この度の巡見使一行における岩波庄右衛門正字の地位が大きく関係してくる。
曾良の属する九州方面への巡見使は旗本の身分の3人で、左記の通りである。
三千石 小田切靱負(ゆげい)
二千石 土屋数馬
三千石 永井監物
各々の班に約50名程の随行員がいた。その中で曾良の一行の構成員は左の通りである。
御書院番 土屋数馬
御家老 赤羽甚左衛門
御用人 青木源蔵
岩波庄右衛門
御役人 門倉宗左衛門
梅沢長兵衛
中小姓六人 御歩行九人
足軽弐拾弐人 御目付壱人
右者ハ 御上下 四拾人 御定
外ニ四五人
御用人としての地位を授かった曾良は前年の暮には30数人分の旅費1000貫(5貫1両として200両)現在のお金にして約2000万円を預かって越年していた。
資料は村松友次氏の著書『謎の旅人曾良』に依るものである。
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