曾良を尋ねて (137)           乾佐知子
─曾良の墓は「対馬」にもあった─

 私の推測ではあるが、曾良こと岩波庄右衛門正字が、秘かに対馬に渡った目的は、本来の仕事である諜報活動の重責を果さんが為であった。
 幕府が今最も知りたかったことは、日本の最西端に位置し本土より遥かに朝鮮に近い対馬に対して国防としての任務が万全であるか否か。はた又外敵の侵略に対して抜かりはないか、ということであった。
 663年の白村江の戦いに大敗した大和朝廷は苦い経験から、4年後に金田城という山城を築き防人(さきもり)を置いてひたすら防衛に務めていた。
 海に囲まれた対馬には港も多い。中でも最も大きいのが厳原で、島主である宗氏の御用船が行き交い隆盛を極めていた。正字がこれ等の現状をつぶさに見て廻ったことは充分察しがつく。
 また対馬は古代より「神宿る島」としても有名で、とくに神社は「延喜式」神名帳に29社が記載されており、大和や伊勢などの中央地域を除いてその数は異様なほど多い。現在も大小あわせて120余社が鎮座しており、古代から対馬が畏敬の地であったことが窺える。また島独特の民間信仰も活発であったという。
 神職を業とする正字にとって、この島がいかに特別な場所であったかは言うまでもない。幕府の任務を終えた後、正字はこれ等の神社を夢中で巡り歩いたのではないか。
 前稿で私は彼が一行から離れた後、急いで江戸へ向ったであろうと書いたが、或いはこの島でもっと長い間逗留していたのかも知れぬ。
 その理由として考えられることは、対馬は大きな島である。南北は80㌔で東西は約18㌔の細長い2つの島から成りたっている。南北を車で行っても3時間以上かかるという。交通や道路の整備された現代でも大変なのだから、まだ未開の部分の多かったであろう江戸時代では、その難儀さは想像がつく。しかし彼の性格からして途中で諦めることは考えられない。むしろ対馬の信仰の深さを覚え、恐らくは暫くの間滞在していたのではあるまいか。
 江戸時代後期に対馬藩士の記述から、曾良の墓らしきものがあった、という「楽郊紀聞」なるものも発見されており、正字がこの島に何らかの足跡を残していた可能性は充分に高いと考えられる。
 政治的見地から国防と貿易を案ずる幕府の思惑と、秘かに神職の望みを果さんとする正字の思いが一致してこの巡見使の一行への参加が実現したのであろう。
 それにしても〝壱岐で己の死亡届けを出す〟という思い切った行動は、恐らく世間の一般常識からは考えられまい。だが現代の我々が考える死と、江戸時代の武士の意識する死とは、かなりかけ離れているといえよう。
 当時はたとえ己の人生が終ったとしても、名を残すことに意義があった。何の為に、誰の為にという大義名分が必要だったのである。曾良はもともと己の立身出世を望む人間ではない。幕府の為、己の父と崇(あが)める松平忠輝公の名誉の為に役に立ちたいとの一心であったと推測するのである。