曾良を尋ねて (138)           乾佐知子
─榛名山の白髪の翁は誰か─

 曾良の終焉については、これまで私見を交えかなり大胆な推測をしてきたが、それだけ彼の生涯は複雑で波乱の多い人生だったといえよう。だがその驚くべき行動はまだ続く。
 136号でも少しふれたが、今回は正字終焉の最大の謎とされる「本土生存説」について述べてゆきたい。
 曾良没後郷里には、曾良の33回忌に当たる元文5年(1740)に曾良の姪を妻とした河西周徳によって供養碑が諏訪市岡村一の正願寺に建てられた。本堂裏の墓地で宝篋(ほうきょう)印塔の型をしている。法名と俗名のほか「壱岐国勝本而卒 享年六十二」とある。また供養碑の陰には「春に我 乞食やめても筑紫哉 曾良 姪周徳拝書」の文字が小さく刻まれている。
 壱岐勝本の墓碑にもこれと同じ句があり、以後の曾良の忌日には〝あじさい忌〟として両地で新しい交流の場が作られ、毎年追悼法要と句会が双方で盛大に行われている。
 時代は流れ昭和に入って13年目に、日本大学教授の渡辺徹氏が『文学』の4月号に「曾良伝存疑」と題する40頁にも及ぶ大論文を出した。氏の発見した紀行文とは、徳川中期の儒者並河誠所の書いた『伊香保道記』である。並河誠所は曾良とは吉川惟足の門下生であり、懇親な仲であることは以前書いた。
 正徳6年(1716)4月に先輩で地理学者の関祖衡を誘って、上州伊香保温泉に行った時の記録である。この年は曾良が亡くなって6年目で丁度7回忌の年に当たっていた。
 その文章を一部抜粋して記したい。
 廿八日。晴。けはしき山路を杖をすがりて登る。(中略)楼門の傍より、白髪の老翁の鍬を荷ひて歩み来るに逢ぬ。見れバ二十年前の旧相識也。世に志も得ざりけれバ(中略)芭蕉翁と云し浮屠(ふと)を友なひて、歌枕見んとて出でいにし人なり。共に手をとりて往事を話る。まことに茫々夢かとのみぞ思ハる。(後略)
 この人物が曾良でなければ一体誰なのか。3人で手を取り合って喜んだ、というのだから本人に間違いなかろう。
 2人が別れ際に再度会ってゆっくり話したい、と申すと翁は「多分あなた方は来れないことになるでしょう。」と不思議なことを言うのだ。後に2人が江戸に帰ると、7代将軍徳川家継がわずか8歳で夭逝された、という大事件が待っていた。
 家継は6代将軍家宣の第4子。正徳2年家宣が50歳で没した後、正徳3年に5歳で将軍職につき、享保元年(正徳6年改元)4月30日になくなった。この死亡した日は4月26日との説もあり、だとすると2人が不思議な老人と会った日は28日だからすでに死亡していたことになる。
 このような幕閣の機密情報をも知り得る立場は、やはり曾ての幕府用人としての職責からすれば不思議ではない。当時の榛名神社には宿坊が多く70余もあったという。曾良はそれ等と幕府との情報を共有していたと思われる。また榛名神社は徳川家菩提寺上野寛永寺の管下に属していた。