曾良を尋ねて (142)           乾佐知子
─謎の旅人、曾良は丹心つくしけり─

 曾良の実像はいわゆる俳人ではない。人名辞典を引くと必ず「江戸中期の俳人」として紹介されている。後世はその評価で統一されがちだが、生涯を通して俳諧をなりわいとした形跡はない。芭蕉の供として旅をしたことがあまりに有名となり、その部分だけがクローズアップされた為と思われる。
 然し、只供としてついて行ったわけではないのだ。実際はその逆で、曾良の仕事をカモフラージュする為に芭蕉がいた、という見方をする研究者がいる。私もその見解に賛同したい。
 この旅は芭蕉の個人的な「枕言葉さがし」だけの旅ではない。幕府やいくつかの藩がバックアップして実現した政治的な色合を持つ旅だったといえよう。従って彼の実像はあくまでも神道家であり、地誌に詳しい公儀の役人(諜報員)でもあった。
 俳諧の場が連衆によって情報交換に利用されていたことはすでに周知されているが『奥の細道』の旅もその活動の一環としてみることが出来よう。
 しかし、2人が重い旅の任務を背負いつつ著した芭蕉の名作『奥の細道』の成功は、後年に発見された曾良の「随行日記」の功績が大きいと論じられている。180日余りの約半年間かけて詳細に記されたみちのくのデーターは後世の研究者達を驚愕させた。その学識の高さと地誌の正確さにおいて曾良に対する再評価がなされたのも当然といえよう。
 この並はずれた体力と智力は、やはり父と推察される忠輝公のDNAを受けたものと考えられる。あくまでも私の推測ではあるが、忠輝公は南蛮医学や語学に秀れ、若くしてラテン語やポルトガル語等4か国語に通じていたという。
 生涯の大半を旅についやしたという脚力の強さについては祖母の俤がある。忠輝公の母は「お茶阿の方」といい、遠江国金谷村の鋳物師の妻で、名を八という。元々「道々の衆」の出身で全国の山を巡って仕事をする。たまたま家康が鹿狩りに行った際に見染められて側室となった。曾良の並はずれた健脚と1ヶ所に留まることのない行動力は、祖母の陰なる力がそうさせているような気がしてならない。
 曾良の存在がきっかけとなり、諏訪市と壱岐勝本との文化交流が芽生え、諏訪の原氏をはじめ多くの方々の尽力によって、2005年より姉妹都市として正式に締結し、毎年5月22日のさみだれ忌には両地や長崎市でも盛大な句会が催されているという。
 ひたすら師芭蕉の影の力となり、誠心誠意を尽した曾良の人柄は、370余年を経た現在も全国の多くの人々の心を捉えている。
 昨年1冊の本が当方に届けられた。私と同年輩の女性6名の俳句仲間が、退職後『奥の細道』と曾良の足跡を辿って7年の歳月をかけて本を出版したという。終着地は壱岐島と諏訪の正願寺であった。
 芭蕉の弟子はきら星の如くいるが、これ程後世の人々に慕われた弟子がいるだろうか。
 自らは生涯に家族を持たず、俳人として1人の弟子をとることもなく、己の生まれ持った苛酷な運命を享受して、ひたすら周囲に丹心、つまり真心を貫いた曾良の生きざまこそ見事という他はあるまい。