冬満月ブルーライトの塔にかな川澄祐勝

瓶に漬けあけぼの色や新生姜高木良多

「晴耕集・雨読集」十月号 感想    柚口満

ほたほたと落つる火屑や虫送り 蟇目良雨
日本全国には「虫送り」という行事が何箇所かに存在する。この行事、稲に着く害虫を退治する意味と稲の豊作を祈願する意味合いを兼ねたものである。
東京近辺では越谷市の北川崎にのこる虫送りが有名で毎年七月二十四日の夕方から夜にかけてのこの行事を吟行する俳人も多い。
川崎神社の神の火が三メートル以上の藁の松明に点火され参加した人たちはそれぞれがこれを抱えて田んぼのあぜ道を三キロにわたって行進する。その様子を詠んだのが掲句。大ぶりの火屑がおちるさまを「ほたほた」という的確なオノマトペで表現したのが眼目であろう。松明の火が闇に動き、大きな火屑が農道を縁取る光景は幻想的である。未体験の方は今年の夏に是非お勧めしたい行事である。
 

鬼やんまきらりと風を乗り替ふる 奈良英子

蜻蛉のなかでも最大種の鬼やんまには多くの愛好者がいる。体に比し大きな緑の複眼、体には黒地のなかに鮮やかな黄色の横縞が、そしてその大きさがなんといっても魅力的である。
その昔、黒羽の鮎簗を吟行しての帰路、お寺の本堂を借りて句会を開いたことがあった。その句会の席にそれは立派な鬼やんまが闖入、悠然と何回か旋回したことを思い出す。
さてこの句もその鬼やんまの飛翔の一瞬を鮮やかにきり取った作品だ。きらりと風を乗り換ふる、の措辞が非凡であり鋭角に折り返す俊敏な動きが目にみえるようだ。いつも思うのだがこの作者には、単なる写生に終わらない極点を求める姿勢がある。
 

万太郎句碑に落合ふ盆の月 沢ふみ江

この句の作者の産土は下町の浅草である。ということはこの地には幼馴染の友達をはじめ古くからの知人が住んでいるということになる。
浅草寺の横にある浅草神社は通称三社様ともよばれ初夏の三社祭りで賑わうところ、その鳥居の右側には目立たないが久保田万太郎の句碑「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」が建っている。
その句碑を目印に幼馴染と待ち合わせたことを一句にしたのが掲句である。仲秋の名月の一カ月前の盆の月の下、浴衣に団扇の風情で久々の旧交を温めたのであろうか。そうそう、万太郎も三十年近く浅草に住んだ人。この句には下町浅草の人間模様のそこはかとないよさが滲み出ている。

虫啼いて夜空が庭に降りてくる 塚本清

日本人は古くから虫の音、虫の声に「もののあわれ」をくみ取ってきた。立秋と相前後しての風の中に、虫の鳴き声に秋の到来を敏く感じてきたのである。
掲句は自分の家の庭で作られた一句であろう。中七から下五にかけての「夜空が庭に降りてくる」の表現が大胆であり、かつ繊細である。夕方が近づくにつれて庭の虫が数種その鳴き声を静かに競い合いだし、そにつれて夜の帳が濃くなるのをこう詠んだのである。
このあとすっかり整った闇の中での虫たちの競演はさぞかし賑やかだったことだろう。
 

町川に豊かな魚影原爆忌 松川洋酔

昭和二十年八月六日に広島に、そして九日に長崎に史上最初の原子爆弾が投下され多くの人命が失われた。人類に対する初めての核兵器の使用、それも一般市民を巻き込んだ殺戮は多くの問題を提起し、現在もその後遺症に苦しむ人たちがいる。二度と繰り返してはならない戒めとして原爆忌を修し慰霊の行事が行われるようになった。
この句の作者は自分の住む町の川の豊かな魚影をみるにつけ在りし日の被曝の河畔の地獄図を思わずにはいられなかったのである。先のオバマ米大統領の広島訪問、そしてこの度の安倍首相の真珠湾慰霊と平和への模索がある一方、核開発やミサイル発射に血眼になる国もある。世界情勢は益々複雑になるばかりである。
 

自らを急き立てて鳴くつくつくし 松谷富彦

蟬の多くは夏の季語に分類されるが、蜩や法師蟬は秋の季語にはいる。特につくつくし、法師蟬は蟬の仲間のなかでも一番遅く現れることから中国では寒蟬ともよばれる。
考えてみるとこの蟬はなかなか手の込んだ鳴き方をする。オーシイツクツクを畳みかけるように繰り返したあとツクツクボーシと三回ほど鳴いて最後はジーと締めくくるのだ。

 この句の作者はこの鳴き方にじーっと耳を傾けた。そして掲句にあるように蟬自身がおのれを急き立てているようだと感じたという。作者本人にも夏から秋への季節の移ろいの速さに対する感慨もあったに違いない。

茶柱に秋めく朝のひとり言 岩永節子

秋めくという思い、感じは人それぞれが受ける主観的なもの、俳句を詠むときには対象物があまり付きすぎない方が成功するように思う。
秋めいたある朝。茶柱が立ったことに誰にも悟られないよう声を上げる作者がいる。日常のささやかな事柄、隠しごとが秋めく季節感によく寄り添う。
 

凌霄花油差しやる井戸車 久保木恒雄

日の色に咲きて盛りの凌霄花 藤田壽穂

 凌霄花を季語とした二句である。凌霄の花は晩夏を代表するものでその鮮やかな色合いや他の樹木に絡み合いながら咲き上る旺盛な生命力に感心する。久保木さんの句は井戸車との取り合わせの句、釣瓶の滑車に油を指す光景がなつかしい。藤田さんは凌霄花を一物仕立てで詠んでこの花の向日性を称えている。

暮れてより影の際立つ秋の富士 小林美智惠

夕暮れの富士の姿は四季折々の顔を見せてくれる。そしてその表情は千変万化して々の心に残る。
この句は秋の富士山の夕景。雲がなく澄み切った青空が茜にそまり、そして浅葱色になる頃その稜線はまるで切り絵のごとく際だって黒く見えたという。改めて富士山の秋の威容を再確認した。
 

八朔の闇を大河の奔りけり 佐藤昭二

陰暦の八月朔日(一日)を略して八朔という。今の暦では九月初旬にあたり農村では台風に代表される天候からの平安と秋の取り入れを願う行事が行われる。
掲句は八朔の日の闇を滔々と流れる大河を詠んでいる。農事の命である「水」の供給源である大河への感謝がよく出ている堂々としたタテ句である。
 

鳴く虫のそれぞれに持場と出番 多田美記

毎晩のようによく鳴いてくれる秋の虫、それをよく観察しているとある法則にこの作者は気がついた。すなわち虫が鳴く場所が決まっていること、また虫の種類によって夕方から深夜まで鳴く時間が異なることに気がついたのだ。
こんなことが判ると虫の音の鑑賞にも一段と身が入る。秋の夜長は読書だけではないようだ。