夏衣二間ぶち抜き揃へあり川澄祐勝

古市枯声さん死す
枯声逝くむぎわら蛸のころを発ち高木良多

「晴耕集・雨読集」六月号 感想    柚口満

残雪を蹴つて勢子衆獣追ふ阿部月山子

この句の作者は山形県在住、今月の句群にはまたぎ衆を詠んだ句が並ぶ。今年は熊が人間を襲うニュースが相次いだ。命を落とした人の多くは筍掘りの人だったという。熊の好みの食べものが不作なのだろうか。
掲句は春の山での狩猟風景、何人かの勢子達が取り囲むように獣を追う。残雪を蹴散らす勢子の動きが目に見えるようだ。同時に出されている「穴を出し熊の腑分けやまたぎ衆」も野趣溢れる一句であった。

初蝶に出合ひて心安らけし升本榮子

俳句を学ぶまではその年に初めて蝶をみても何の感慨も湧かなかったが近頃はこの作者が詠むように敏感に反応するようになった。早春のまだ寒さがのこる中を、小ぶりな蝶が低く飛ぶさまは感激もするし、何か嬉しいし誰かにもこの景を知らせたい衝動にもかられる。
掲句はそのうえ、安らかな心もちをも授かったという。高浜虚子は「初蝶来何色と問ふ黄と答ふ」と初蝶を詠んだが、なにはともあれこの出会いは嬉しいものだ。

天を突く木遣に重ね雉子のこゑ前川みどり

諏訪大社の最大の行事とされる御柱祭(正式には式年造営御柱大祭という)が七年振りに挙行された。期間中この奇祭を見ようと全国から百八十六万人が集まったという。
作者は当地に山荘を持ちいわばこの祭りの氏子のひとりという立場にあり祭の事情には精通している。山だしから里曳き等で唄われる木遣は御柱独特のもので、特徴のある甲高いその唄声はまだ雪の残る八ヶ岳に届かんばかりの風情満点のものだ。そしてその合間にケーンケーンと鳴く雉のこえ。諏訪の里の自然の中の奇祭を詩情ゆたかに詠いあげた。同時に出されている「かぎろひのなか神の木の曳かれ行く」も御柱祭を前面に出さないで佳句となっている。

春めくや置薬屋の大鞄平岩静

置薬屋さんといえば何か昭和の匂いのするレトロな感じがするが今でも結構健在であるらしい。年に何回か巡回してきて減った分の薬を補充してゆくといったシステムでおまけにもらった紙風船の思い出が懐かしい。
佐渡の地にも船に乗って大きな鞄をもった置薬屋さんがやってきた。雪解けを待っての巡回である。置薬屋さんが来ること、これがすなわち春の到来を告げる使者なのである。

潮騒の囃して開く花梯梧広瀬元

沖縄県在住の広瀬さんの句。季語の梯梧の花は南国を象徴する花である。梯梧は沖縄県の県花で沖縄が北限とされているが最近では暖かい本州でも見られる花でもある。梯梧の花は夏の季語であるが沖縄では春から咲き出すという。
この句は沖縄の潮騒が囃せば梯梧がそれにつられて花を開くと詠む。当地では梯梧の花が咲くことで夏の到来を確かめる。心躍る嬉しい夏が来た。

隣り合ふ酒屋醤油屋燕来る草地たみこ

最近の話題として燕の数が減ってきた、ということがある。たしかに自分の周りを見渡してもそれは実感として感じるのである。何か自然環境に変化があるのだろうか。
さてこの句を読んで想像できるのは、燕が帰ってきたこの町は落ち着いた昔の風情の残るところだろう、ということ。それは酒屋醤油屋が隣り合って残っているからである。古い格式のある軒先には巣作りに適した立派な軒下も備わる。

桜湯に話題切り出す控の間久保木恒雄

八重桜の七分咲きの花を塩漬けにしたものが桜漬けでその傍題に桜湯がある。この桜湯、薄桃色の花びらを茶碗にいれて熱湯を注ぐと花片が開きいい香りがしてくる。いかにもおめでたい感じがするものでお祝いの席でふるまわれる。
掲句の舞台は結婚披露宴の控室であろうか。両家の人達が揃って初めはぎこちない雰囲気であったが、席に出された桜湯が話題になり一挙に打ち解けたという。桜湯の効用。

草餅を大好きといふ人見舞ふ佐藤さき子

春が到来するといろいろな種類の餅が和菓子屋さんの店頭に並ぶ。鶯餅にはじまり蕨餅、桜餅、椿餅、そして掲句にある草餅と餅好きにはたまらない。
この句はその草餅の大好きな人を病院であろうか、見舞ったという。あるいはこの草餅は作者自身の手で作った心の籠ったものだったのかもしれない。見舞いを受けた人の笑顔がみえるようだ。

記念樹に久の集ひや百千鳥佐藤利明

この句を読むと上五の記念樹という言葉がよく効いていることに気付く。
何十年まえだろうか、作者をはじめとする人たちがある記念樹を植えた。そして幾星霜、その樹下のもとで昔の仲間が集まることとなった。大きく成長した記念樹、みんなの風貌もかなり変わっていたがすぐに昔の時代に戻り話が弾んだ。記念樹に鳴く百千鳥が印象的だ。

青麦のはや膝丈に通学路島村真子

十一月、十二月に蒔かれた麦は冬の厳寒期にもめげず芽をだし春が訪れると目に見えるようにすくすくとその丈を伸ばす。掲句を読んで「青麦のたしかな大地子の背丈」という佐藤鬼房の俳句を思い出した。
小さな子供が通う通学路の脇に植えられた青麦はこの前までは指先位だったがいまは入学児童の膝の丈までに成長した。麦の成長に子供の成長をからめた一句である。

雨あとの盛り上りたる桜かな清水伊代乃

咲き満ちた桜の花はいろいろな姿を我々に見せてくれる。それはさまざまな条件のもとで様子が変わるわけで、その条件のひとつに天候がある。
掲句は雨上がりの桜を詠んでいる。夜来の雨があがり晴れわたった青空の桜は盛り上がってみえたという。ほどよいお湿りを得て一気に満開に達したのだ。その白さも目に沁みたことだろう。

源流の点から線へ水温む田村富子

海に滔々と流れ入る大河のおおもとを辿ればいずれも山塊から湧き出る一滴の雫である。このことを踏まえて作られたのがこの一句。その源流から流れ出た水が点から線の小川となり温んだ水中には藻が茂り小魚の影も見てとれる。川から水を引いて代田の準備も始まった。春が俄かに動きだした。

花冷の上野の駅舎啄木忌宮沼健夫

上野駅といえばその昔は北への玄関口で始発、終着の駅というイメージが強かったが最近は乗り入れの電車が多くなり大きく駅の雰囲気が変わりつつある。十五番線の後ろにあの啄木が詠んだ「ふるさとの訛なつかし…」の歌碑が建つがそれに振り返る人も少ない。桜冷の上野駅にたち作者は啄木の忌を修し、昔の上野駅を偲んでいる。