「晴耕集・雨読集」1月号 感想  柚口満

ひよんの笛鳴る鳴らないとかしましき蟇目良雨
きのふより少し高音に瓢の笛宇井千恵子
今生の一会となりし瓢の笛若木映子

  昨年10月の春耕秋季俳句大会は東京の新宿御苑の吟行で始まった。この吟行で注目かつ興味を誘ったのが掲出句3句の季語である瓢(ひょん)の笛、瓢の実であった。
 なぜ注目を集めたかと言うと答えは簡単、瓢の笛はあまり見ることができない代物であるからだ。マンサク科のイスノキには梅の実大の堅い虫の瘤ができ、虫が巣立ったあとの実の穴を吹くとヒューヒューと妙なる音がでる。これを俳人は瓢の笛と呼びその俳諧味を好むのである。
 吟行当日、波朗主宰の案内でこのイスノキの下に沢山の参加者が集まり、この逸品の笛をさがすのに躍起になったに違いない。枯れた落葉の中に目を凝らしつづける集団は苑内の他の人からみると奇異な行動に見えたことだろう。
 さて良雨さんの句。やっと見つけた笛を、私はいい音を出した、私は全然ならないと騒がしかったと詠み千恵子さんはこの前よりは高音がうまく吹けたと喜んでいる。草笛などもそうだが、こつをつかむまでに少し時間がかかるようだ。
 映子さんはこの年になって初めて目にした瓢の笛を今生の一会と表現してその感激をあらわにしている。私も5年前に拾ったこの笛の名器を持っていて、暇な時に吹いてみるがなかなかいい音が出ないでいる。

容赦なく背のちぢみゆく冬隣 古市文子

  我々俳句をたしなむ人間は否応なく老いという問題に直面している。私が俳句を始めたのが35歳だからあれから40年、でもまだお仲間の中では平均年齢といわれる年である。
 この句の作者は身長の縮みが著しいと嘆いているが実感である。自分も2、3センチは確実に背が低くなっている。割合と背が高いので猫背気味に歩くらしく、ウオーキングのときは背筋を伸ばし胸を張り、20メートル位先に目線を合わせるなど努力をしているが、はたして効果が出ているのかはなはだ心もとない。
 この句、「容赦なく」には厳しい現実感がともなうが、冬隣の季語には逆に厳しい冬の寒さも乗り越える気構えも伺える。

一ひらの枯葉地に着くまでの時間岩田諒

   いちがいに枯葉といっても、たとえば柏の葉のように木の枝にしっかりしがみついているものもあれば地上に落ちて嵩を積んでいるものもある。
 この作品はそのどちらでもなく、枝を離れ地上に着くまでの時間にすればごく短い間の枯葉に心を寄せたものである。この時間がいわば生と死をわける一瞬だと思えば作者の真摯な目線に納得するのである。

蔵挙げて洗ふ甑や神の留守安原敬裕

 甑は「こしき」と読む。広辞林によると甑は米などを蒸すために用いる器でのちの蒸籠(せいろう)にあたるとある。この句に関しては酒造りの一環で米を蒸す時の大きな器ということだろう。
 句の作者は日本酒の蔵元にはかなり詳しく、平成29年の春耕賞では「酒造蔵」を応募、上位をしめた。神の留守の間に蔵元総出で甑をあらう光景が生き生きと描写されている。神様がお帰りになると一気に新酒づくりの作業が進む。

舞茸の笊はみ出して売られをり小山田淑子

 舞茸は広葉樹や椎の大木の根元に生える食用きのこで、その特徴は大きくて重いことである。扁平な舌状のものが幾重にもついて山のようになり籠に入り切れないようなものもある。この句も大きな笊をはみ出す舞茸をみてその迫力に感動している。

流木に残る潮の香雁渡し菊地ひとし

 しみじみと味わいのある一句である。流れ着いた流木はどこから来たのであろうか。大きな海を長い月日をかけて日本に辿りついたのかもしれない。
 乾いた流木からはかすかな潮の香が漂い、雁が渡ってくる頃の風、雁渡しが吹き始めた。「雁渡し」という季語、いかにも詩情をそそる季語である。

初鴨の台場に小さき陣を立て竹内岳

 東京湾の台場の内海には今年も初鴨の群れが渡ってきた。不思議なもので渡って来たての群れは落ち着きがなく統制が乱れているが、馴染んでくると陣らしきも組む。この句、台場に陣を作ったと詠んだのがミソで近くには江戸末期に陣を組んだ砲台跡が残る。

烏瓜遠き日のこと手繰り寄す田中里香

 烏瓜は夏にはレース編みのような白い花を咲かせ、晩秋には朱紅色の印象的な実を付ける。蔓を巻き上げ手に届かぬ高さで人を魅了する朱の実の鮮やかさは誰しもが心を動かされたはずだ。その遥かな実を手繰るのは簡単そうであるがこれがなかなか難しい。遠き日のこと手繰り寄す、の把握が独創的だ。