「耕人集」9月号 感想  沖山志朴

撓はせて枝より落つる青大将  斉藤房子

 撓った枝の先から、一匹の青大将が滑り落ちる決定的な瞬間をとらえた句である。筆者も山登りをしていて、前の人の首に青大将が落ちてくる瞬間を目の当たりにしたことがある。決して珍しい光景ではない。
 語を省略したり、倒置法を用いたりすることにより、俳句としてより密度の高い作品にまとめている。作者の感性のすばらしさを感じる。  

餡蜜やまだぎこちなき仲直り  小池まさ子

 仲直りしたもののまだ、お互いに心の底にわだかまりが残っている。その感情の機微を詠った句である。
 餡蜜から考えるに、女性の友達同士であろうか。言葉ではお互いに和解して理解はしているものの、向かい合ってみるとどうもまだしっくりいかないところがある。中七が女性同士の微妙な心理的な距離を見事に表現している。

継ぎたせる竹の筧やほととぎす  望月澄子

 筧は竹だけではなく、木をくり抜いたりして用いることもある。山のおいしい清水を引いて、道行く人が飲用できるようにしているのであろうか。
 上五の「継ぎたせる」が効いている。水源からの距離があるのであろう。この五音により、写生句としてリアリティーが出た。澄んだ水の色、流れ落ちる清水の音、そして、遠くから聞こえてくるほととぎすの鳴き声。読者にほっとするような安らぎを与えてくれる視覚と聴覚の句である。    

夕立の匂ひが先にやつて来し  鳥羽サチイ

 視覚ではなく、嗅覚や第六感で天候の変化を予知できる人は決して珍しくない。掲句の作者もその一人なのであろう。大気のわずかな変化からこれから降り出してくる夕立の気配を感じ取ることができるという。
 この句を仮に「夕立を連れて黒雲やつて来し」としたらどうであろうか。常識的に天候の変化を表現しただけの平凡な句になってしまう。特異な嗅覚の予知能力によって作りえた貴重な句といえよう。

葦の穂の出でて川風きらめけり 飯田千代子

 水辺に生えている葦の穂は、芒に似ていて、日の光を受けると輝く。風が出てくると、それは靡きながら一層美しく輝く。
 色のないはずの風が、葦の穂が出そろったことにより、きらめき出したというところに掲句の妙味がある。自然をじっくりと観察する中で生まれた感覚の句である。作者なりの目でもって自然をよく見ている。 

蛍舞ふかなた無数の街明り  岩山有馬

 作者は鹿児島県の離島にお住まいの方。同じ9月号に「晴天の夕日竜舌蘭の花」という作品も掲載されている。南国の動植物などの素材を生かしながら、ユニークな作品を発信し続けている方である。春耕の会員の層の厚さを感じさせる。
 自然が豊かに残されている暖かい島の夏の夜の光景である。繁華街を少し離れると、そこに蛍の生息域が広がっているのであろう。闇の中での蛍の観賞ではない。また違った視点に注目したい。

清流の音にふるへる岩煙草  野口栄子

 岩煙草は、湿った岩壁に着生し、花は紫色の小花。清楚で美しいので愛好者も多い。
 かなり奥まった山間の地なのであろう。岩間を流れ落ちる清流の音。その音に呼応するかのように可憐な岩煙草の花が、揺れ続けている光景。「ふるへる」と、擬人化したことで、イメージが鮮明に印象付けられた。
 
栃若の面子百枚虫干す  清水和德

 栃若といっても若い方には、ぴんとこないかもしれない。昭30年代に相撲界で大活躍した栃錦と初代の若乃花のことである。また、面子もゲーム機の普及した今の子供たちは知らないであろうが、かつては男の子の夢中になる遊びの一つであった。
 百枚も持っていること、虫干までするというのであるから、作者にとっては、大切な宝物なのであろう。懐かしい素材を用いて俳味たっぷりにまとめた。

山椒喰ときめく余生我にあり 真嶋陽好

 山椒喰は、日本では夏に見られる。昆虫などを捕食するが、「ヒリヒリン、ヒリヒリン」という鳴き声が、山椒の実を噛んだ時の悲鳴にも聞こえることから付けられたという。
 作者は、野鳥の観察も趣味とされているのであろう。めったに目にすることのない山椒喰を、双眼鏡で見事にとらえた感動を「ときめく余生」と表現した。短い表現の中に、日々の充実した生活ぶりが窺える句である。