「耕人集」 10月号 感想  沖山志朴

蓮咲くや又ねと云ひて逝かれしよ林美沙子

 蓮の花を観つつ、他界した友を思い出している句。いまわの時の「又ね」の印象が強烈。下五の「よ」は、詠嘆の意を表す助詞で、これにより、一句に余情が残る構成になっている。
 おそらく生前、故人が別れ際に口癖のように言っていた「又ね」なのであろう。それだけに、作者にとっても他界したことがまだ実感として受け止められず困惑している。季語の蓮の花は、それとなく天国を暗示しているようで、句全体を彩る。 

炎帝や父母の生き抜く爆心地中村岷子

 四季のうちで最も暑い時期が「炎帝」である。爆心地は、広島であろうか、長崎であろうか、定かではないが、それだけで猛暑を連想させる語。その語を下五に据えての体言止め。重いものが心の中に残る。
 異常気象もあって、近年の日本の暑さは格別。その中のさらに暑い地にあって、老いと闘いながら生きている両親を思いやる一方で、唯一の被爆国である日本の人々の心の奥底の癒えぬ深い傷跡やこだわりを、あえて晒している句でもあるように思える。

大群の蜻蛉寄り来るコンサート小林美穂

 野外コンサートでの光景であろう。著名なアーチストの演奏なのであろうか。多くの人が興奮しているその上空に、蜻蛉の大群が押し寄せてきて翅を輝かせている。
 周りの人がコンサートの感動に酔いしれる中で、作者の目は、ふと上空の秋の空に向けられる。そこには、人々の騒ぎをよそに、沢山の蜻蛉がいかにも気持ちよさそうに浮遊している。それは、コンサートを楽しんでいるようにも見えなくはない。「寄り来る」という自動詞を配することで人々の一体感を強調している。

這ひ這ひの子も出迎へる盆の僧島村若子

 盆の僧は、一日に何十軒もの檀家を巡る。それぞれの檀家では、今か今かと僧を待ちわびる。そんな人々の中にまだ這い這いしかできない子が混じって出迎える。
 汗を拭い拭い入ってきたお坊さんが、そんな幼子を見つけては、頭をなでつつ「遅くなってごめんな」とでも言ったのであろうか。俳諧味の溢れる、そして、どことなく懐かしさや温かみの感じられる句である。 

胸突きの巡礼古道蟬しぐれ松崎克己

 夏の暑さ真っ盛りの時期の巡礼古道での句である。山中の狭く険しい道、騒がしいほどの蝉の声。一休みしたいところであるが、この険しい山道を越えると、また視界も開け、歩きやすい道になる、そう信じて頑張る。
 掲句には、助詞の「の」を除けば「胸突き」「巡礼古道」「蟬しぐれ」の3つの複合名詞しか使われていない。しかし、読者は、無意識のうちに、早鐘のような鼓動やせわしい息遣い、したたる汗までを補い想像しつつ一句を味わう。見事に言葉を省略し、読者の想像力を掻き立てることに成功している句である。

糠床の息確かむる走り梅雨竹花美代惠

 酒のつまみに、ご飯のおかずに…、日本人の食卓に欠かすことのできない糠漬け。その糠床には、沢山の乳酸菌や酵母菌等が生きていて、盛んに発酵を繰り返す。こまめな手入れがないと、舌に合う糠漬けはできない。
 中七に作者の情感が込められている。いよいよ梅雨に入る。梅雨を迎えると、糠床の状況も普段とは微妙に変わる。指先のわずかな感覚で、その息遣いを確かめる。そして、まるで生き物の世話をするかのように丹念に掻き回しては励ます。

塔光る村の教会麦の秋松井春雄

 雄大なこの明るい景色は日本ではなく、ヨーロッパのように思われる。村に古くからある教会なのであろう。日の光を浴びて、チャペルの十字架がひときわ光る。麦畑は色づいて、かなたまで広がっている。田園の情景が見事に描かれている。
 人と人との醜い争いがあることなど微塵も感じさせない牧歌的な明るい雰囲気に安堵感を覚える。

不器用の度胸まかせや阿波踊本多孝次

 毎年、お盆のころになると全国各地で阿波踊りが披露される。「連」の人たちは、この日のために時間をやりくりしながら1年間練習を重ねる。観客は、見事なその踊のしぐさや衣装に圧倒される。
 作者もきっとその踊に魅了されて、自らも踊ってみたくなったのであろう。簡単に見えてもなかなか手足は思うようには動いてくれないが、度胸任せで、恥をしのんで楽しむ。そこにまた新たな一体感が生まれる。