「耕人集」  11月号 感想         沖山志朴

蜩の声透きとほる日暮かな赤嶺永太

 蜩は、早朝や夕暮れに鳴くことが多いが、蜩には、「日暮し」という別の表記が見受けられたり、「日暮れ惜しみ」と呼ぶ地域もあったりするなど、とりわけ夕暮れに鳴く蟬としての印象が深い。日も短くなった秋の夕暮れ、林の中で一斉に鳴きだす蜩の声を聞いていると、まるで幻想の世界にでも迷い込んだような錯覚すら起こすことがある。
 哀愁のこもった鳴き声、そして、不思議なくらいに人の心に浸みこんでくる夕暮れのその澄んだ鳴き声を「声透きとほる」という感覚的な表現で見事に言い表しているところに共感した。 

診断を受くハンカチを握りしめ澤井京

 高齢になると、多くの人が似たような経験をするのではなかろうか。医師の目の前には、レントゲン写真が掲げられているのかもしれない。医師の視線も、作者の視線も一瞬そちらに向く。祈るような気持ちで医師の言葉を待つ。自ずとハンカチを握りしめる指先にも力が入り固くなる。
 「ハンカチを握りしめ」の表現が実に的確。この措辞に作者の内面の心理や緊迫感が象徴的に表現されている。表現技法としては、倒置法が用いられるとともに、中七の句またがりになっている。この倒置法や句またがりのアンバランスや破調が内面の緊張感を言い表すうえで大きな効果を発揮していることは言うまでもない。

送り火は母の歌ひし子守唄古屋美智子

 なんとも切ない哀感の漂う句である。事情があって、送り火を焚くことができなかったのかもしれない。その代わりとして、作者は幼いころ母親が自らへよく歌ってくれた子守唄を口ずさんのであろう。声にすることで故人との様々な思い出がより鮮明に蘇ってくる。
 次から次へと湧いてくる感懐の念、生きているうちにああしてやればよかった、こうしてやればよかったという悔いも湧いてきたであろう。「また来年ね、お母さん、さようなら」と送った後の空虚感が痛いほど伝わってくる。

ひらがなの初のおてがみ夏休み藤沼真侑美

 ようやく文字が書けるようになったお孫さんからの初の手紙。文字のバランスが悪かったり、句読点がなかったりしても、一生懸命に書いたその心の温もりは十分に伝わってくる。
 幼児語をまじえながら、あえて幼い心に寄り添った易しい表現にしたことで、作者の温かさや配慮が伝わる句となった。コロナ禍で、お孫さんとは会えない夏休みになってしまったのであろうが、一通の手紙で心は癒やされる。 

合掌の力弛めず曼珠沙華中村岷子

 曼珠沙華をよく観察して、その見えない命の躍動に心を研ぎ澄ましているのが素晴らしい。合掌しているのは人ではなく、咲きかけた曼珠沙華である。
 曼珠沙華というと、満開の絢爛たる花だけに注目しがちである。しかし、作者は開きかけたまだ固い曼珠沙華に注目した。固い蕾の状態から、はつかに出始めた蘂、その数が2本、3本と徐々に増えていく過程である。曼珠沙華も1年間にわたって溜めたエネルギーや養分を渾身の力で絞り出してゆく。  

三密の葬儀を終ふる残暑かな鈴木ルリ子

 今年の流行語大賞の決定は、ちょうど春耕誌の12月号が届くころであろう。原稿を書いている時点では、「三密」は有力な候補の一つに上っている。まさに、新型コロナウイルス流行の年を象徴する語である。
 ただでさえ、関係者にとっては、葬儀は死者を彼の世へと送り出すたいへん神経を使う儀式である。不注意により新型コロナウイルスの感染者が出ることがあってはいけない、と今年はさらに神経をすり減らす。死者との別れの辛さに加えての周りへの気遣い。心身ともに疲れ果ててしまったのであろう。加えての厳しい残暑の年でもあった。冷静な目で一句にまとめているが、心中察するに余りあるものがあろう。 

秋の水のぞけば見ゆるふた心池田年成

 自らの内面の揺らぎや迷いを詠ったユニークな句である。半ば自嘲的に俳諧味を交えながら表現したところにうまさを感じる。
 澄んだ秋の水、ふと覗くと、そこに自らの影が映る。しかし、よく見ると、その顔に素直になれない自らの心の内が丸写しとなっているという。「二心」は源氏物語などにも使われている古語。味方や主君に背こうとする素直になれない心持ちである。その古語を巧みに一句の中に生かしている。