「耕人集」  4月号 感想         髙井美智子 

仰ぎ見る退職の日の冬の月荻野智子

 退職を迎える日は長い人生でも特別の一日である。感慨深いこの句から定年まで勤めあげられた方と推測された。新型コロナウイルス禍の折、お別れ会の参加者も少なく、職場を立ち去ることになった。
 達成感や淋しさの入り混じった複雑な気持ちを抱えて帰る家路。汚れを払い去った寒い夜空には、くっきりと月が浮かんでいる。作者は月を仰ぎ見て心が救われ、第二の人生へと前向きになったことであろう。「冬の月」の季語が「退職」と響き合っており、作者の気持ちを凝縮しているようだ。作者にとって記念の一句となった。  

貨物船冬の怒濤を曳きつれて鳥羽サチイ

 冬の日本海は高波で荒れ狂う。どこへ向かう貨物船であろうか。荒々しい海の中を黒く重々しい船が毅然として突き進んでゆく。その様子が、まるで、怒濤を従えて航行しているようだという。一気に詠いあげたことにより力強い作品となった。 

機を織る縁に猫ゐる春隣中谷緒和

 洛北の寂光院へ向かう畦道を歩いていると民家から機織の音が聞えてくる光景を想像した。日当りの良い縁で猫が聞き慣れた機音にうとうとしている。なんと微笑ましいひと時であろうか。
 「春隣」の季語の採用により、今迄の冬の厳しさから解放される作者の期待感までも想像できる。

方丈の衣ずれ清し今朝の春矢尾板シノブ

 方丈は、禅宗などの長老、住持などの居所。作者は新潟にお住まいであることから、直江兼続、上杉景勝が幼少期に学んだ雲洞庵を想像した。方丈の間を裏山からの雪解風が柔らかく通りぬけているのであろう。
 僧侶が方丈の間を行き交う衣ずれの音が聞こえるほどの静けさである。中七の「衣ずれ清し」の省略の効いた措辞によって、朝の勤行の緊張感や清涼感が伝わってくる抒情の溢れ出る句に仕上がった。 

春一番波はルンバを踊るごと宮沢久子

 春一番が吹くことによっていつもの波の様子が異なっていることを捉えた鋭い観察力から生まれた句である。
 ルンバのステップは単調でいて軽やかで、時にはスカートを広げてくるりと回転する。いきなり強い風を巻き上げた春一番。その時の波がくるりと回転したのかもしれない。この波をルンバの踊りとして擬人化し、快活でリズム感のある句へと昇華させている。春を心待ちしている作者の踊るような気持ちが伝わってくる。若々しい感性を取り入れようとされている作者の姿勢を大切にしたい。  

大寒の物みなぴんと張り詰めて中村宍粟

 この句は「ぴん」という短いオノマトペを巧みに使い成功している。俳句の技法の一つのオノマトペを使って成功するのは容易ではない。しかも下五の「張り詰めて」の措辞を一層引き立てている。
 大寒の日は、草を見ても木々を見ても水面を見てもあらゆる物が張り詰めているように見えたのだ。さらに張り詰めている空気感にまで想像を膨らませる素晴らしい感覚の句となった。

恵方へと列なして行く漁船団佐藤文子

 作者のお住まいの村上は、芭蕉の「奥の細道」紀行の滞在地でもある。近くの日本海側に面して岩船港等いくつかの漁港がある。
 初漁は操業の安全や豊漁を祈願し、命を預ける船を清め、大漁旗や注連飾をつけて出港する。これらの多くの新年の素材の中から、初漁の漁船団が恵方を目指し一斉に出港するというおおどかな景色を切り取った。新年のめでたさを詠いあげた格調高い作品となった。

街灯の明かりを点に雪しまく菅原しづ子

 今年は特に北陸地方の大雪の気象ニュースが多く流れた。「雪しまく」は吹雪よりも風がさらに強く吹きまくり、視界が失われるほどの状況となる。
 街灯がぼんやりと見え、やがて「点」として見えたことがこの句の眼目である。この灯が「点」になるというだけの措辞により、視界のない全体の映像を浮かべることができる。作者はこのわずかな灯りを頼りに家を目指したのであろう。

初夢の亡夫いつものあの笑顔河村綾子

 なんとまあ素直な句でしょう。生前は穏やかな笑みをかかさないご主人であったのでしょう。
 月日が流れ、やっと悲しみや苦しみが薄らぎ始め、良い思い出ばかりが膨らみ始めた。初夢に笑顔の御主人が現れ、とても幸福な気持ちになった作者に今年はなにかいい事がありそうだ。

 
 春耕誌及び春耕俳句会のホームページでは、蟇目良雨主宰が耕人集の「今月の秀句」を鑑賞しておられますが、重複しないように選句をさせて頂いております。