春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

子規の四季

子規の四季(82) 2017年7月号

明治三十五年(1902)7月1日。「日本」に連載中の『病牀六尺』が五十回に達した。この回の内容は、病者にとっての空間を考察したものである。 肺を病むものは肺の圧迫せられる事を恐れるので、広い海を見渡すと洵(まこと)に晴れ晴れといゝ心持がする が、千仞(せんじん)の断崖に囲まれたやうな山中の陰気な処には迚(とて)も長くは住んで居られない。

子規の四季(81) 2017年6月号

余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。

子規の四季(80) 2017年5月号

病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅に手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へ迄足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。(中略)其でも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、其さへ読めないで苦しんで居る事が多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るゝ様な事が無いでもない。

子規の四季(79) 2017年4月号

明治二十九年(1896)四月、子規を中心とした郵便による句会「十句集」が始まった。これは東京市内なら朝投函した郵便がその日の午後には届いた、当時の郵便事情を反映していると考えられる。郵便の熱烈な愛好者であった子規は、郵便という当時最先端のメディアを駆使して、句会を運営しようとしたのだろ。

子規の四季(78) 2017年3月号

子規は親しかった二人の画家の影響で、俳句における写生に開眼したといわれている。その一人が中村不折であり、もう一人が下村為山であった。〈俳句は日本特有の文芸であり、俳画もまた日本芸術史の光であって、誇るに足る舞台である〉  子規堂で知られる松山市の正宗寺にある子規埋髪塔は為山のデザインしたもので、愛媛県指定 史跡となっている。

子規の四季(77) 2017年2月号

左千夫が現れ、秀真・麓もやって来た。左千夫は大きな古 釜を携えて来た。茶をもてなすためである。釜の蓋は近ごろ 秀真が鋳造したもので、つまみの車形は左千夫の意匠だとい う。麓は持参した利休の手簡の軸を釜の上に掛けた。  この日のもてなしの内容は、3月2日付の「墨汁一滴」に 詳述されている。 氷解けて水の流るゝ音すなり  子規

子規の四季(76) 2017年1月号

明治33年(1900)は子年。子規は病苦を超えて、根岸子規庵で新年を迎えることができた。その喜びを綴った随筆が「新年雑記」 である。 ○復(また)新年を迎へた。うれしい。紙鳶(たこ)をあげて喜ぶ男の子、 善き衣著て羽子板かゝへて喜ぶ女の子、年玉の貰ひをあてにする女髪結、雑煮が好きで福引が好きでカルタが好きでカルタよりもカルタの時に貰ふお鮓や蜜柑が好きだといふお鍋お三、これ等の人を外にして新年が嬉しいといふのは大方自分のやうな病人ばかりだらう。

子規の四季(75) 2016年12月号

明治32年(1899)12月、子規は多忙な日時を送っていた。12月1日(金)、俳諧叢書第二編『俳人蕪村』をほととぎす発行所より刊行。翌12月3日には、根岸短歌会開催。12月4日には「日本」に「短歌を募る辞」を掲載、新年雑詠での新しい短歌を求めた。12月10日には子規庵句会例会を開催。この日、「ホトトギス」第三巻第三号刊行。

子規の四季(74) 2016年11月号

もゆるなすみ庭の紅葉照りませどみこのみことのみゆき まちかねつ            左千夫 

子規の四季 (73) 2016年10月号 子規の誕生日

子規の誕生日は、新暦では10月14日である。しかし、子規は自身の誕生日をずっと旧暦で祝っていたようだ。妹律の思い出話によると、根岸に親子3人で暮らすようになってからの子規は、毎年旧暦9月17日には赤飯を炊かせ、隣の陸羯南宅へも届けさせていたという。 明治34四年(1901)10月27日、子規は1日繰り上げて34歳の誕生祝いをした。『仰臥漫録』には、こう記されている。

子規の四季 (72) 2016年9月号 仰臥漫録

明治34年(1901)9月2日(月)。この日から、子規は『仰臥漫録』の執筆を始めた。執筆のきっかけは、寒川鼠骨に みそはぎ みそはぎ よると「土佐の俳人から贈つて来た土佐半紙が大判物で質のよいものであつた所から、ふと斯うした手記を試みる気になられたものである」という。それ以前の日記『墨汁一滴』や『病牀六尺』

子規の四季 (71)  2016年8月号 草花帖

明治35年(1902)8月1日(金)晴。 子規は、渡欧した中村不折から預かった画帖を無断で貰い受け、「草花帖」と名づけて写生を始めた。すでに6月からは「果物帖」の写生をしていたから、8月6日までは2つの画帖が並行して画かれたわけだ。

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