春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

枕草子のおもしろさを読む(1)2017年6月号

「瞬間の物語」を鮮やかに描き出すのに優れていたのが、式部と同時代を生きた清少納言であろう。 清少納言は、歌を詠まない自由を見つけた。筆の赴くまま、感じたこと、思ったことを試みたのである。「散文詩」といわれるほど文学的に高められた随筆『枕草子』の誕生である。

はいかい漫遊漫歩(64)(65)2017年6月号

芥川龍之介(俳号:我鬼)は、「芭蕉雑記」で〈 芭蕉は一巻の書も著はしたことはない。所謂芭蕉の七部集なるものも悉く門人の著はしたものである。〉と書く。指摘のとおり芭蕉には、自ら板行した句集、自ら執筆した俳論、俳書がない。「日本の古典の代表的な紀行文」と言われる「おくのほそ道(奥の細道)」ですら、芭蕉自身は公開する気がなかったという。

自由時間 (48) 2017年5月号

ライト・ヴァース(軽い詩)という詩のジャンルがある。ブリタニカによると、「第一に楽しませるために書かれていて、しばしばナンセンスと言葉遊びを使用する、ささやかで遊び心に満ちたテーマの詩。かなりの技術的能力、機知、洗練さ、そして優雅さを要するのが特徴で、いずれの西洋詩でも重要な部分を占める」ということである。  わが国では、それほど大きな流れを形成してはいないが、ライト・ヴァースを多く書いた詩人というと、まず天野忠の名前が浮かぶ。

曾良を尋ねて (93) 2017年5月号

関所と番所の通過の苦労は、曾良が同行者としていかに心を砕いていたか、その経過と状況がよくわかる。「漸(やうやう)として関をこす」とあるが、その方法として〝袖の下を使った〟のではないか、という説が一般的だが、私は曾良が最後の切り札として公儀のお墨付きを見せたのではないかと思うのだが如何だろう。

鑑賞 「現代の俳句」(108)2017年5月号

亀鳴くと小さな嘘のうつくしき    仁平勝[件]

子規の四季(80) 2017年5月号

病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅に手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へ迄足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。(中略)其でも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、其さへ読めないで苦しんで居る事が多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るゝ様な事が無いでもない。

衣の歳時記 (86) 2017年5月号

「産着」。季語ではないが、人間にとって記念すべき衣服の一つである。この世に生まれて初めて着る衣。清潔な晒木綿やガーゼで作られることが多い。襁褓と共に、誕生の喜びを込めて用意される。「産衣」とも書く。百日過ぎのお宮参りの晴着を含める場合もあるが、「初着」として区別するのが良いだろう。

伊勢物語の面白さを読む(34)2017年5月号

昔男にとってこの旅は、みずから選んだ流離であり、みずから選んだ試練であった。あるいはそれは、歌うことの未熟さによる敗北が招いた、失意の旅であったのかも知れない。他者との交感が実践されない時、心は閉じ、歌も閉じてしまう。しかし、いまやこの男は「ありやなしや」という、素朴でありながら、それゆえにこそ普遍的な、人への問いかけを試みるまでになったのだと思われる。そしてその問いかける歌の声こそが、その場の人々の深い共感を誘発させることになったのである。確かに「歌」なるものは、私たちの生活から遠ざかって久しい。しかし、他者との交感を導くものとしての「歌」の在り方は、今もなお、私たちの心に息づいているのではないだろうか。それこそ「言葉の力」「文学の力」と言い換えてもよいと思う。

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