アーカイブス
子規の四季(75) 2016年12月号
明治32年(1899)12月、子規は多忙な日時を送っていた。12月1日(金)、俳諧叢書第二編『俳人蕪村』をほととぎす発行所より刊行。翌12月3日には、根岸短歌会開催。12月4日には「日本」に「短歌を募る辞」を掲載、新年雑詠での新しい短歌を求めた。12月10日には子規庵句会例会を開催。この日、「ホトトギス」第三巻第三号刊行。
衣の歳時記 (81) 2016年12月号
─ 外套 ─西高東低の冬型の気圧配置が定まってくる十二月。日本海側は雪空、太平洋側は北風に乾ぶ晴天の日が続く。昼はいよいよ短くなり、外套が手放せなくなる季節を迎える。
俳句時事(175) 作句の現場「深秋の高麗郡」2016年11月号
高麗郡は埼玉県日高町から飯能市にかけての丘陵一帯で、かつて朝鮮から渡来した高麗人が開拓した土地だと伝えられている。7世紀半ば、百済と高句麗が新羅によって滅ぼされたため、数千人が日本に亡命した。その多くは武蔵野に移住し、先に渡来していた高麗王若光によって統治されたと言う。
衣の歳時記(80) 2016年11月号
─股引 ─四季の移ろいの中で、よりはっきりとその気配を感じるのは夏と冬である。ことに冬は、寒さが体に堪える分敏感に反応する。寒さが身に添う11月は、冬の到来を受け容れ、守りに入る時候といえよう。
俳句時事(174) 作句の現場「月山登山」2016年10月号
私はこれまでに月山へ3度登っているが、3度とも好天に恵まれた。約百種もあると言われる 高山植物に直接触れ、頂上からの雄大な景観に見惚れるなど、夏山の醍醐味を大いに楽しむことが出来た。8合目から歩き始めて4時間近くかけてようやく頂上に辿り着いた。一説には芭蕉は湯殿山を参拝した後再び戻ったとあるが、その体力と精神力には驚くばかりである。
子規の四季 (73) 2016年10月号 子規の誕生日
子規の誕生日は、新暦では10月14日である。しかし、子規は自身の誕生日をずっと旧暦で祝っていたようだ。妹律の思い出話によると、根岸に親子3人で暮らすようになってからの子規は、毎年旧暦9月17日には赤飯を炊かせ、隣の陸羯南宅へも届けさせていたという。 明治34四年(1901)10月27日、子規は1日繰り上げて34歳の誕生祝いをした。『仰臥漫録』には、こう記されている。
衣の歳時記(79) 2016年10月号
─ 時代祭 ─ 10月は収穫の最盛期である。稲の刈入れを終えると、新穀を供え神に感謝する秋祭を執り行う地方も多い。澄み渡った青空の下、繰り出した神輿の周りに笑顔の人々が集まる。
俳句時事(173) 作句の現場「初夏の佐渡」2016年9月号
初夏の佐渡には見るべきものが多い。それは佐渡特有の自然と、そこに根付いた伝統行事・文化が連綿と受け継がれていると言うことである。 佐渡と言えば誰もが思い浮かべるのが「朱鷺」である。朱鷺は一時絶滅が危ぶまれたが、その後中国から譲り受けるなどして人工飼育に成功した。「トキ保護センター」の話では、現在施設で飼育しているのは193羽、野外で育っているのが163羽と言うことである。
子規の四季 (72) 2016年9月号 仰臥漫録
明治34年(1901)9月2日(月)。この日から、子規は『仰臥漫録』の執筆を始めた。執筆のきっかけは、寒川鼠骨に みそはぎ みそはぎ よると「土佐の俳人から贈つて来た土佐半紙が大判物で質のよいものであつた所から、ふと斯うした手記を試みる気になられたものである」という。それ以前の日記『墨汁一滴』や『病牀六尺』
衣の歳時記(78) 2016年9月号
─ 秋彼岸 ─ 緩やかに秋へと移ろう九月。「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるように、彼岸は時候の変わり目でもある。畦や土手に曼珠沙華が咲く中、墓参に訪れる人が跡を絶たない。
俳句時事(172) 作句の現場「那智火祭」2016年8月号
那智火祭は那智大社の例大祭の一つで、毎年七月十四日に行われている。もとは那智の滝にあった社が那智山中腹に新しく造営されるとともに、神々を神輿で移した神事から始まったものと伝えられている。 ーでの朱鷺は数年前に見たが、野外での朱鷺 は初めてであった。