春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

韓の俳諧

韓の俳諧(38)2022年4月号

鏡城南門外の田村小重郎(風見坊玉龍)が編集兼発行者した『蕉禅世界』は、韓半島の東北の拠点に進出した日本人の俳誌だった。雑詠欄には、長野からの投句もあったが、主に、韓半島の俳人が投句し、上位には、色紙や短冊が贈られた。

韓の俳諧(37)2022年3月号

『蕉禅世界』2月号の続き。主宰ではない判者の第二雑詠と云うべき欄がある。主評、風見坊玉龍に対し、月番の客評を眞風舍乙年女が行っている。乙年女は、眞風舍桑月の二代目と思われる。投句者の住所を見ると、発行地の鏡城と同じ咸鏡北道が多数を占めていて、韓半島の東北端に多数の俳人がいたことが判る。

韓の俳諧(36)2022年2月号

俳句雑誌『蕉禅世界』2月号に「紅雨紀行四」という風見坊玉龍の、今の北朝鮮と中国との国境の紀行文が載っている。玉龍の他3名が国境に聳える海抜2744㍍の白頭山から東に流れる豆満江(トゥマンガン)上流の農事洞(ノンサドン)手前で、焚火をして夕食を作り一夜を明かすところから始まる。朝鮮書家として名ある池昌翰との交流も書かれている。

韓の俳諧(35)2022年1月号

大正4年(1915)の俳句雑誌『蕉禅世界』2月号に、「子規は新派に非ず我流也」という論説が載っている。著者は其角堂主人。其角堂の号と庵を継いだ田辺機一は、三囲神社内其角堂に住み、子規もライバルと認める俳句の指導者だった。蕉風を、初期・中期・末期に分け、子規は初期と中期に従い、機一は末期(完成期)の蕉風に従っているとした。機一は子規の早逝をいたんだ。

韓の俳諧(34)2021年12月号

大正3年1月韓半島北部で発行された俳句雑誌『蕉禅世界』がある。鎌倉の建長寺に湖磨が建てた「蕉禅俳諧五哲記念碑」があり、五哲の中の風見坊玉龍が『蕉禅世界』主宰の田村小重郎だ。

韓の俳諧(33)2021年11月号

京城在住の俳人たちが、五の日十の日に集まり句会を開いていた。自由律俳句が盛んだった。中村烏堂が『五の日十の日』という俳誌を発行したようだが残存していないようだ。句会の内容は、雑誌『朝鮮及び満州』に残されている。

韓の俳諧(32)2021年10月号

明治41年創刊の雑誌「朝鮮」に、募集俳句の欄があった。京城の牛人や目池を中心としたオンドル会同人が選句にあたり、10日締切り翌月1日発行という速さであった。入選者の居所と本名も記載され、貴重な資料である。

韓の俳諧(31)2021年9月号

1908年3月発行の雑誌「朝鮮」の創刊号に、オンドル会小集という俳句の会の記事がある。筆者は、橋本牛人。記事にあわせて掲載された句は、節分の厄落としの句が中心だが、牛人は42歳を超えるのに力尽き、韓の土となった。

韓の俳諧(30)2021年8月号

ホトトギスの俳人であった吉野左衛門が、1910年に『京城日報』の社長として赴任し、『京城日報』に日報俳壇を設け選者になった。しかし、このころの『京城日報』は残っていない。1914年に吉野左衛門は病気のために退任・帰国し、石島雉子郎に後任の選者を依頼した。石島雉子郎は、18歳で『浮城』を創刊・主宰し、ホトトギスにも投句していた。1913年に京城の救世軍本部の士官として赴任し浮城会で俳句の指導を行った。

韓の俳諧(29)2021年7月号

『京城日報』には、いろんな形で俳句が載っているが、明治から大正にかけて江戸川会という句会があったことが、僅かな痕跡からわかる。江戸川とはソウルの韓江のこと。子規とも交流のあった中村鳥堂が、送別句会を開き記事を京城日報に載せた。

韓の俳諧(28)2021年6月号

『京城日報』は『ホトトギス』系とされることが多いが、必ずしもそうではない。『俳諧鴨東新誌』を主宰した京都の上田聴秋が、『京城日報』の選もしている。また、浜松の松島十湖にも撰を依頼している。

韓の俳諧(27)2021年5月号

朝鮮総督府の機関紙京城日報は、2003年に縮刷版が刊行された。京城日報は、大衆文芸の懸賞募集を積極的に行い、俳句をはじめ川柳、俗謡、狂歌などの懸賞を募集した。俳句の選者は、橋本牛人であった。

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